大変長らくお待たせいたしました。前回の白河祭りで最後まで残ってしまった「年齢差逆転パラレル」のお題を消化させていただきました。パラレルのようなそうでないような話ではありますが、もしまだご覧になられておられるのでしたら、どうぞお納めください。
<ボストーク 1961>
貴族に必須のカリキュラムは多岐に渡る。政治学、地政学、経済学……ラングラン貴族の子として生まれ、将来的にその役目に相応しい働きを期待されている大公子としては、何はなくとも先ずそういった基礎的な知識を正しく身に付けることが肝要である。クリストフ=マクソードは、大公である父カイオンからの教えを正しく守っていた。
如何に高い知能を誇ろうとも、知識なき知能は宝の持ち腐れ。八歳のクリストフは、その点に対して、自らの家庭教師を務める不世出とも評されるひと握りの学者たちとの付き合いで、強い当事者意識を持つに至った。彼らの持つ知識は、果てしなく深く、そして終わりが感じられないほどに膨大であったからだ。
そんな生え抜きの家庭教師たちによる午前のカリキュラムを終了したクリストフは、午後の武芸や魔術祭祀のカリキュラム開始までの間の空き時間を、自室で個人的な勉強の為の読書に充てようと考えていた。数学、物理学、機械工学……クリストフ本人としては、貴族に必須の文系科目より、そういった理系科目にこそ心惹かれてやまなかった。
大公夫妻である両親はあまりいい顔をしてくれなかったものの、本分の学業に影響を与えない範囲でならと、そういったクリストフの趣味を大目に見てくれていた。元より、学者たちが舌を巻くほどの聡さを発揮できる高知能《ギフテッド》。取っかかりさえ掴めば、ひとりでの学習にも弊害はなかった。
バタン、と自室の扉が開いたのは、机に向かって数学の公式を解いている最中。女中のひとりがお茶でも持ってきたのだろう。そう思いながら公式を解き続けること暫し。あるべき声がけがないことに気付いたクリストフは顔を上げて、室内を振り返り、おや、と首を傾げた。
奇妙な出で立ちの、少年とも青年ともつかない年代の男性が扉にもたれるようにして立っている。街で見かける労働者たちを小奇麗にしたような服装。明らかにこの館にいていい人種ではない。彼はクリストフと視線が合うなり、悪戯めいた微笑みを口元に浮かべ、人差し指を口唇に当ててみせた。黙っていろということらしい。
バタバタと廊下を駆け回る足音。品に欠けたその足音にクリストフが顔を顰めた直後、ノックされる扉。その瞬間、男性は困ったといった表情で宙を仰いだ。どうやら彼はこの館の衛士から逃げているようだ。仕方がない――クリストフは男性を手招くと、ベッドの下にその姿を隠し、扉を開いた。
「どうした? 騒々しい」
「申し訳ございません、大公子様。怪しい人物を邸内で見かけたとの報告がありまして、先ずは大公子様の御身の御無事の確認をと」
「そうか。しかし僕自身は元より、僕の部屋もこの通りだ。ずっと机に向かっていたこともあって、そういった不審な人物を目にする機会もなかった。もし父さまからの命令であるのならば、そのように伝えておいてくれ」
「御無事を確認できただけでも幸いです。扉前に衛士を配置しても宜しいでしょうか?」
「離れた位置に配置してくれないか? この通り今は勉強中だ。人の気配があると気が散る」
「わかりました。扉を確認できる位置に配置します」
こういった我儘が利くのも、才能に恵まれているものの変わり者と評される大公子ならではだ。クリストフは扉を閉じ、遠ざかる足音を確認してから、ベッドの下に潜んでいる闖入者に声をかけた。
「そろそろ、出てきたらどうだ?」
「助かったぜ、礼を言う」ベッドの下から這い出してきた男性は、再び机に向かったクリストフの背後で、「困ったことになっちまってな。転送機能が故障したのか暴走したのか知らねえが、知らない場所に放り出されちまって。街の人間に俺のことを聞いても知らないって言われるわ、神殿を目指そうにも徒歩で行くには遠いし、おまけに道に迷って」
「まさかとは思うが、君は道に迷ってここに入り込んだなどと言い出すつもりじゃないだろうな」
「そのまさかなんだな、これが。俺は自分で言うのも何だが、方向感覚が致命的に欠けてるらしくてな。人の出入りの多い建物だったから、公共の施設だと思ったんだが」
「ここは僕の住まいだ。確かに商人だの貴族だのと出入りの多い屋敷ではあるが」
そこまで話をしてクリストフは自分の手が止まっていることに気付いた。これでは勉強に集中できそうにない。諦めたクリストフは椅子を回転させると、部屋に立ちっぱなしでいる男性に、ベッドに座るよう促す。
「神殿と言ったな? もしかして君は地上から迷い込んだ人間なのか? それだったらその奇妙な服装も納得が行く。君の名前は?」
「ちょっと違うが、まあ、そんなもんだ。俺の名前はマサキ=アンドー、お前の名前は?」
「これは失礼した。人の名前を尋ねる前に、先ずは僕の名前を名乗るべきだったな。僕の名前はクリストフ=マクソード。ラングランの大公家が当主、カイオン=マクソードの嫡男だ」
その瞬間、マサキの目が見開かれたのをクリストフは見逃さなかった。「似てると思ったんだよ」ぽつりと呟くと、「厄介なことになった」口元に手を当てて、何事か考え込んでいる。
「もし、困っていることがあるのであれば、言ってみるといい。曲がりなりにも大公家だ。神殿に渡りを付けるぐらいなら容易いことだ」
「それで帰れりゃいいんだけどな」
マサキの視線が宙を彷徨う。クリストフは思った。神殿に辿り着いた彼は、その転送機能の事故でこの街に放り出されてしまったに違いない。だからこそ、神殿の転送機能に懐疑的になっているのではないか? と。
「何だったら神殿の機能を練金学士たちに調査させよう。転送機能が正常に働けば、君の望みは叶うのだろう?」
「いや、その、何だ……シュウ……じゃなかった、クリストフ」
「何故、君はその名前を知っている!」
これにはさしもの高知能《ギフテッド》たるクリストフも驚きを禁じ得ない。思いがけず声を上げてしまったクリストフは、慌てて口に手を当てた。衛士たちに聞こえてしまっては、元の木阿弥だ。
「馬鹿げた話だと思われるのを承知で話すけどな、俺は風の魔装機神サイバスターの操者なんだよ。えーと、風の魔装機神っていうのは」
「魔装機計画については伝え聞いている。まだまだ計画段階で、試作機の完成すら十年以上はかかるという話だが。しかし、ということはだ。君はその計画が完成し、実際に運用されている時代から来たというのか?」
「俺にだってよくはわかんねえよ。でもお前は白河愁なんだろ。ってことは、クリストフを名乗っているお前がいるこの世界は、俺にとっては過去のラングランだということになる」
「僕はこの名を捨てたというのか? 君がその名を知っているということは。それとも君は将来的に僕の友人になる人間だとでもいうのか?」
「待て待て、落ち着けよ。お前、昔からそんな性格なんだな。ひとつのことに意識が集中しだすと、他のことはどうでも良くなる」
「これは、失礼した。思うところがあって、つい」
穏やかだった両親が剣呑な雰囲気を発するようになることがある。そのことにクリストフが気付いたのは、つい最近のことだった。それもこれも、このところ屋敷に出入りするようになった或る神官の所為だ。
クリストフが話す限り、彼自身は穏やかで敬虔な精霊信仰の伝え手に感じられる。しかし時折、尻尾を出すのだ。高知能《ギフテッド》たるクリストフだからこそ気付ける詭弁。それを弄しては、両親を言い包めて高額の支援や貴族人脈への口利きを得てしまう。
そう、あの神官は欲を持っているのだ。
両親はそんな神官の考えに感化されつつあるらしい。特に大公妃であり、クリストフの母であるミサキにその傾向は顕著だった。しかし、だからといって、両親であすら持て余す『変わり者の大公子』が何を言ったところで、「お前の言うことは相変わらず意味がわからない」と一蹴されるだけ。クリストフは、どうやって両親からあの神官を引き離すべきか考えあぐねていた。
「思うところがある、か」マサキは眉を顰めた。
未来から来たらしいマサキはクリストフの未来を知っているのだろう。そして、それをこの場で伝えていいものか悩んでしまったに違いない。ということは、それは恐らく、決して平坦な道のりではないのだ。クリストフの未来に安穏とした幸福が続いているのならば、マサキは迷わずそれを口にする――クリストフは、マサキの性格をそう分析した。
「俺から言えることはひとつだけだ。母親には気を付けろ」
「君と同じ地上人である彼女を、君はそう言うのか? そして僕の母親でもある彼女を」
「信じる信じないは、お前次第さ」マサキはそう言って、クリストフの胸に手を伸ばしてきた。クリストフは咄嗟に身を退こうとしたものの、椅子の背もたれが邪魔をして適わない。身の回りの世話の一切を女中に任せているとはいえ、赤の他人に触られるのがクリストフは好きではないのだ。
けれども、マサキの手が、クリストフの右胸に触れた瞬間、クリストフはそういった自分の性質が人によるものであることを思い知った。温かい気《プラーナ》が流れ込んでくる。そしは力強く、そして優しく、クリストフの胎内を駆け巡る。
風の魔装機神ということは、彼は高位精霊である風の精霊に愛された人間であるのだろう。そんな彼に相応しい気《プラーナ》だ。マサキの気《プラーナ》に触れたクリストフはそう思った。
「お前の母親であろうと、俺はお前を傷付けた奴を許そうとは思えない」
マサキは明瞭《はっき》りそう言い切ると、一旦、口唇をきつく噛み締めて、無念を感じさせる表情を浮かべた。「どういった理由であれ、許せそうにないんだ、シュウ」
母親に気を付けろと言ったマサキはそれ以上、クリストフの未来について語ってはくれなかった。理由を尋ねると、彼は困った様子で目を瞬《しばた》かせて、「俺にも欲があるってことだよ」とだけ言った。
そんなマサキの話を詳しく聞くに、どうやらマサキは風の魔装機神であるサイバスターで地上に出ようとしたところで、この世界に迷い込んでしまったようだった。「こんなことになるんだったら、セニアの言う通り、神官の許可を取って神殿を使うべきだったな」更に突っ込んで話を聞くに、マサキにとってそうやって地上に出るのは割と珍しくないことでもあるらしい。
世の中とは変われば変わるものだ。地上人である母ミサキの地底世界での扱いを振り返ったクリストフは思った。大公妃として優雅な生活を送っているように見える彼女に対して、地上人がと陰口を叩くものは少なくない。
だからこそ、母と故郷を同じくするマサキと離れがたく感じたクリストフは、午後のカリキュラムを、闖入者が屋敷内に存在しているかも知れないということを理由にサヴォタージュすることにした。そしてマサキとふたり、部屋の窓から抜け出し、街へと繰り出した。後で両親から大目玉を食らうのは間違いなかったが、それだけ、クリストフは母と同じ地上人であるマサキに訊ねたいことがあったのだ。
「僕は宇宙に憧れがあってね、その為に勉強をしている最中なんだ」
「へえ。そのぐらいなら、答えてやっても大丈夫かな。大丈夫だ、シュウ。お前はその願いを叶えるよ」
「地上には空に星々が煌く夜があるんだろう? その空の先には無数の惑星が存在している宇宙がある。母さまに聞いたんだ。それはなんと素晴らしい世界だろう。僕はその世界を自分の目で見たい。それが叶うんだね。夢のようだよ、マサキ」
顔見知りの主人が営むレストランで、ふたり差し向かいになりながら、クリストフはマサキに自分の夢を語った。数学も、物理学も、機械工学も、全てはその為に学び続けているものなのだ。その努力が叶うと聞かされて、嬉しくない筈がない。
マサキはクリストフに様々な宇宙にまつわる話をして聞かせてくれた。例えば、地上で初めて有人宇宙飛行に成功したロケットの話。それに先立って、動物たちが片道切符で宇宙に飛び立って行った話。どれもこれもクリストフには興味深い話ばかりだった。
「宇宙にある星を繋げて神話の登場人物に見立てる星座って文化が地上にはあるんだよ。俺はオリオン座が好きなんだ。オリオンって言うのは、神話の中では好色で知られる困った美青年らしいんだけど、星座の形は美しくて、まるで竪琴みたいにも見えるんだよ。日本では鼓星って言われてたらしいぜ。
そんなオリオンには空にひときわ強く輝く一等星がふたつあるんだ。ベテルギウスとリゲルって言うんだけどな。この内、ベテルギウスはおおいぬ座のシリウスと、こいぬ座のプロキオンと一緒に冬の大三角と呼ばれる正三角形を冬の空に描き出すんだ。
地上が明る過ぎると、暗い星なんかは見えなくなっちまうから、満点の星空を臨むなんてのは中々難しいもんだけど、この辺りの星は全部明るい星だからな。冬の澄んだ空気のお陰で、都会でも見られる貴重な星だよ」
「鼓星とは美しい呼び名だね。しかし詳しいね、君は」
「俺も星に憧れてた時期があってさ、星座盤を片手に空を見上げたり、星座の由来の本を読んだりしてたんだよ。あー、地上に行って戻ってこれないかね。この時代じゃ難しいよな。でもなあ、そうしたらお前に、俺の持ってる星図盤なんかをやれるんだが」
「そうだった、マサキ。君を元の時代に戻さないと」
楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。レストランを出たクリストフは、その足で家庭教師を務める学者のひとりの家に向かった。練金学士協会《アカデミー》でもそれなりの発言力を持っている学者だと父から聞かされている学者。彼だったらこの事態を何とかできるのではないだろうか?
午後のカリキュラムをクリストフがサヴォタージュしたことについて、「幼いうちはそのぐらいヤンチャでなければ」と笑って済ませてくれた家庭教師は、マサキから聞き出した詳しい魔装機の話を信用してくれたようで、その帰還に力を貸すと約束をしてくれた。
後の話は早かった。何枚もの紙に複雑な計算式を書き付けた家庭教師は、「これを持って神殿へ行くといい」と、神官への紹介状と共にマサキにその紙束を託した。クリストフが家庭教師にその計算式の意味を訊ねてみたところ、それは転送機能プログラムの出力の微調整用のものらしい。流石は知識の宝庫、練金学士協会所属の学者だけはある。
神殿までの馬車はクリストフが手配した。そのぐらいのことだったら、両親の力添えも必要なく成せる。それが大公子という立場でもあるのだ。
「世話になったな。まあ、上手く行かなかったら、またこの街に戻ってくるさ」
「そうだな、マサキ。でも君が戻ってこないことを僕は祈っているよ。君には大事な役目があるんだろうからね」
「じゃあな、シュウ」
「では、マサキ。宇宙の話を聞かせてくれて有難う。君に精霊の加護が多からんことを」
マサキは馬車に乗ってクリストフの住む街を後にした。そんなに日を置かずに、空の馬車が戻ってきて暫く。それ以降、マサキが街に姿を見せることはなくなった。ということは、きっと元の時代への帰還を果たしたのだろう。クリストフはそう思うことにした。
多忙な毎日に忙殺されている内に時は過ぎ、二年が経った。
子供の生活というものはあらゆる物事の目新しさも手伝って、その記憶を簡単に失わせてしまうものでもある。クリストフはすっかりこの日の出来事を忘れ去ってしまっていた。
運命の夜。クリストフは、その後の人生を決定付ける奇禍に遭った。
マサキの言葉をクリストフが覚えていたら、運命はまた違った様相を見せていただろうか? その答えはわからない。かつて出会った未来のマサキの存在やその言葉をクリストフが思い出すのは、これから十年以上も後のことであったからだ。
<了>
.
.
PR
コメント