<真夏の夜の夢>
観客と俳優、そしてオーケストラと、全てが一体となったラストシーン。静かに幕が下りきると同時に、観客席は熱狂と興奮の坩堝《るつぼ》と化した。次々と座席を立つ観客たち。ある者は惜しみない拍手を捧げ、ある者はハンカチを振り、またある者は賛辞の言葉を叫ぶ。ただの一度も寝ることなく観劇を終えたマサキは、彼らが放つ熱気に圧倒されてしまっていた。
悲劇的な幕開けとは裏腹に、コミカルな登場人物たち。狂言回しの役割を果たす妖精パックが登場してからは、加速するように舞台の面白さが増していった。マサキは興奮冷めやらぬ劇場内で、ひとり。それまでの名場面を振り返っていた。
ハーミアとライサンダーの恋。ヘレナとディミートリアスの恋。オーベロンとティターニアの恋。そしてシーシアスとヒポリタの恋。真夏の夜に絡み合い、もつれ合った恋模様は、笑いを多く含みながらも、しんみりと胸を打たせるものでもあった。
やがて再び幕が上がり、舞台に俳優たちが顔を揃えたカーテンコールが始まった。鳴り止まぬ拍手に迎え入れらた彼の表情は誰もが誇らしげだ。娯楽たる舞台とはこういったものであるのだ。マサキは学校の授業の一環で見た舞台に思いを巡らせた。芸術であることばかりが強調されたそれらの舞台は、観客から自由に観劇する気持ちを奪ってはいなかっただろうか。
それと比べて、今日の舞台はどうだ。演じ、歌い、踊っていた俳優たちの生き生きとした姿。彼らからは、自分たちが演じている演目がシェイクスピアであるといった気負いは感じられなかった。観客たちにしてもそうだ。笑い、泣き、喜ぶ彼らは、舞台上の登場人物たちとともに真夏の夜を生きていた。
だからこそ生まれた一体感。今日この劇場に集った人々は、誰もが皆、今日のこの舞台を娯楽として楽しむことに一生懸命だったのだ。
カーテンコールの終わり。歌劇を陰から支え続けたオーケストラに満場の拍手が送られる。ゆっくりと下りてゆく幕とともに、ぽつりぽつりと劇場内に明かりが灯ってゆく。そうして動き始める劇場内の時間。非日常から日常へ。人々が次々と劇場を後にする段階を迎えても、マサキは座席から動けずにいた。
だから云ったでしょう、といった表情でマサキの様子を眺めていたシュウは、特等席《プレミアム》に陣取った観客がその姿をまばらにする頃になって、ようやくマサキの肩を叩くと席を立つように促してきた。
「どうでしたか、真夏の夜の夢は」
「面白かったよ。全体的にコミカルなのが良かったな。深刻になり過ぎない感じでさ」
「そこは演出家の力ですね。人によってはオーバーに悲劇を描くことで滑稽さを演出したりもしますよ」
「へえ。それはそれで見てみたくもあるけどな。お前、もしかして同じ原作の劇を何度も見たりするのか」
「演出家が異なれば、劇の雰囲気も変わりますからね。気に入っている原作の劇は概ね何度も見ますね」
観客席の間にある階段を上がってホールを出れば、入り口ホールは今さっき観劇を終えたばかりの客で溢れ返っていた。ポスターやパンフレットを求める人の群れ。先程までの興奮冷めやらぬといった様子で立ち話に興じている人々。この熱狂の中にいつまでも身を置いていたい。マサキはそう思いながらも、娯楽は非日常。去り難い思いはあれど、いつかは日常に帰らなければならない。
見送りに立つスタッフの間を抜けて劇場を後にしたマサキは、そのまま歩いてシュウが予約を入れていたらしい近場のレストランへ向かった。
流れてゆく人の波。観劇を終えた人々は、誰しも似たような考えでいるようだ。劇場近く。レストラン以外にもバーやクラブが並ぶ歓楽街に足を踏み入れると、周囲にいた礼服の観劇者たちが、それぞれ馴染んだ店へと姿を消してゆく。
マサキもシュウに続いてレストランの扉を潜った。
薄暗い店内に、仄かに灯る橙色の明かり。足元が確認出来る程度には明るい。
そこそこの埋まり具合なテーブルには、劇場から流れてきたと思しき礼装の客の姿もあった。耳に届く会話を拾い集めるに、彼らは今日の舞台の出来を論じているようだ。そんなの論じるまでもねえ。舞台の出来に充分に満足をしていたマサキは、食事と会話を楽しむ客で賑わっている中を、ウエイターに案内されながら進んで行った。
どうぞと勧められたのは窓際の席。白いテーブルクロスがかかった丸テーブルには、扁球体の灯火器《ランプ》と白い花ばかりを集めた花瓶が飾られている。どうやら客を迎えた席の灯火器《ランプ》に明かりを灯すシステムになっているらしく、ウエイターはマサキたちが着席するのを待ってから、芯の長いライターで灯火器《ランプ》に火を灯した。
ぱあっと色を鮮やかにするテーブル。いっそう白さが際立つ。
ひと仕事を終えたウエイターが恭しく一礼して去ってゆく。その後ろ姿を眺めながら、マサキは口を開いた。
「お前が選ぶ店っていつもこんな感じだよな。やたらと雰囲気があるっていうかさ、畏《かしこ》まってるっていうかさ……」
ジャンクフードばかりを口にしている訳ではないものの、気軽にぱっと立ち寄れる店でばかり食事をしているマサキは、当然ながら自ら進んでこうした店に足を踏み入れたりはしない。勿論、稀には魔装機の女性陣に連れられて、オーガニックだのヴィーガン食だのといった少し気取った店に入ることもある。とはいえ、それとてカジュアルな雰囲気には違いなく。
気短な面があるマサキにとって、素早く栄養補給が出来るファストフードやキッチンカーは、偏重して利用してしまうほどに都合のいい食事処だ。きちんとした食事を取りたくなったら、大量の客を捌くことに慣れている定食屋に赴く。そう、大いに庶民的。そうしたマサキの食生活を知っているからだろう。彼女らはマサキを連れて行く場所を、きちんと選んでいるのだ。
だからこそ、しみじみとそう口にせずにはいられなかったマサキに、その発言の真意を窺いかねたのか。それともマサキの普段の生活に考えを及ばせたからか。シュウは少しばかり怪訝そうな表情になった。
「話をするのにも気を遣うような店は選んでいないつもりですが」
「悪いっていう意味で云ったんじゃねえよ。偶にはこういう店もいいなって云おうと思っただけだ」
「あなたの食生活はある意味不摂生そうではありますね」
「お前の偏った食生活よりかはきちんと栄養を取ってる気がするけどな」
そこまで話をしたところで、テーブルに水とメニューブックが届けられる。舞台に夢中になっていたからこそ気付かずにいれたものの、マサキの腹は相当に減っていた。何にするかな。マサキは云いながらメニューブックを開いた。
簡易的なコース料理。前菜、スープ、メインディッシュにデザート。そして食後のドリンク。それぞれに幾つかのメニューが存在している。例えば前菜には、生ハムかチーズの盛り合わせ。若しくは温野菜か自家栽培の野菜のサラダ。スープならポタージュ、ミネストローネ、コンソメスープ……どうやらここは自分でメニューを細かく選んで組み合わせたコースを作るタイプの店なようだ。面倒臭え。ぽつりとマサキが呟くと、云うと思ってましたよ。シュウはそう云って笑った。
シュウに付き合わされる内に、少しずつ覚えるようになったメニューの数々。マサキはシュウに尋ねながら、ひとつひとつメニューを決めていった。前菜、スープ、メインディッシュにデザート。食後のドリンクを決めたところで、窓に映る自分の姿がちらと目に入った。
そこには、日常の自分とは一線を画した、この場に相応しい装いの青年が存在していた――……。
レストランでの話題は、やはり今日の舞台の感想が主なものとなった。物語の再現性や、俳優たちの演技にオーケストラとの調和。監督の演出力。話すべきことは山ほどあった。舞台の世界に明るくないマサキは主観的な意見を述べるしかなかったものだったし、そこには的外れな感想もあったに違いなかっただろうが、どの意見にもシュウは確りと耳を傾けてくれたものだ。
レストランでの話題は、やはり今日の舞台の感想が主なものとなった。物語の再現性や、俳優たちの演技にオーケストラとの調和。監督の演出力。話すべきことは山ほどあった。舞台の世界に明るくないマサキは主観的な意見を述べるしかなかったものだったし、そこには的外れな感想もあったに違いなかっただろうが、どの意見にもシュウは確りと耳を傾けてくれたものだ。
シュウ曰く、舞台の演出や演技をオーバーなものとさせないところが、この監督が評価される理由であるのだそうだ。喜劇だからと云って笑わせることを意識せず、恋心に親子や夫婦の確執と、きちんと演じさせるべきところは演じさせ、それぞれの登場人物に感情移入させている。だからこそ、狂言回し的な役割であるパックの活躍が生きてくるのだと、シュウにしては珍しくも控えめな云い回しでそう述べた。
成程、そう云われてみれば、真面目な登場人物の中にあるからこそ、コミカルなパックの存在は際立っていたようにも感じられる。
何組ものパートナーが登場するややこしい人間関係が纏まりをみせているのは、求心力があり、また独立した存在である妖精パックというキャラクターが、悪戯好きだからこそ為せる手法で彼らに絡んでいくからだ。その過程が面白く感じられるのは、それぞれ我が身に降りかかった問題を、登場人物たちが真面目に演じてみせたからに他ならない。これがオーバーアクションな演技で、喜劇一辺倒な物語とされてしまっていたら、捻くれ者でもあるマサキのこと。果たしてこの舞台を面白いものとして受け止められていたかどうか。
マサキはさあ笑えと押し付けられているような笑いの世界は、笑うべきポイントが|明瞭《はっき》りとしているからこそ、あまり得意ではないのだ。
「今日はあなたの率直で忌憚のない意見が聞けて良かったですよ、マサキ。何事もそうですが、先入観のない素人の方が、物事の本質を的確に捉えることに優れていますからね。人間という生き物は不思議なもので、下手に知識や経験を重ねてしまうと、自分の意見に固執するようになっていってしまう。私にもそういう面があります。だからこそ、あなたの感想の数々は、傾聴に値すると私は思いましたよ」
湯水のように溢れてくる言葉の数々。マサキは興奮していたのだ。演劇という未知なる世界に自分が馴染めたその事実に。話せば話しただけ、これまでの経験からくる劣等感が嘘のように消えてゆく。だからこそ、シュウを差し置いて自分ばかりが話をしている現実に、ふと気づいてしまったその時に、マサキはいたたまれないほどの気まずさを感じてしまったのだ。
|特等席《プレミアム》のプラチナチケットを手に入れた男が、この舞台に掛けていた期待はどれだけのものであっただろう。どれだけ想像力が貧困なマサキであっても、シュウの胸中は容易に予想が付いた。気に入っている原作の劇を何度も見ると云う男なのだ。きっと、的外れなマサキの意見に物思うところもあっただろうに。
だのにシュウはマサキの一方的な話に付き合い続けてくれたのだ。
これでマサキが己を恥じれなければどうかしている。
――そもそもあなたを誘ったのは私ですからね、マサキ。誘った人間がどう感じたかを知りたいのは当然のことでしょう。楽しめないものに誘おうとは思わないものの、万が一にもつまらないと感じさせてしまったら? いたたまれない気持ちになるのは私の方なのですよ……
帰り道。少し散歩をしましょうと、シュウに誘われて立ち寄った公園は、賑やかな歓楽街に人が集まっているからか、ひっそりと静まり返っていた。ひとり、ふたりと擦れ違う者があるものの、直ぐに姿を遠くする。きっと、ここを通り抜けて歓楽街へと向かうのだろう。
草木のささめきが耳に届く。
今日はとてもいい一日でしたよ。不意にそう言葉を吐いたシュウが、足を止めて青く突き抜ける空を見上げた。夏ですね。云われたマサキもまた空を見上げた。そうだな。春から切れ間なく夏を迎えた空は、まるで先程までいたレストランのテーブルクロスのような白さの雲を携えている。
通年過ごし易い陽気のラングランの夏。涼やかさが増す最近の陽気でも、富みに過ごし易い。真夏の夜だ。マサキが劇のタイトルにかけてそう云うと、シュウは小さく声を上げて笑った。
「真夏の夜の夢の夜というのは、夏至の夜のことなのだそうですよ。原題が日本語に訳された時に、その意味を変えてしまったのだとか」
「夏至? じゃあとっくに過ぎてるってことじゃないか」
「けれども、恋人たちが過ごす夜は、夏至よりも真夏の方が似合っていると私は思いますがね」
振り返ったシュウの手が、マサキの髪にかかる。きちんとセットされた前髪。涼しい額が面映ゆい。
ふたりの周りを風が駆け抜けてゆく。ラングランの心地良い風。天へと続く地表を滑るように|疾《はし》ってゆく風は、マサキの髪を爽やかに嬲ったものだったけれども、いつもは乱れがちな髪も今日ばかりは整ったままだ。
そんなマサキの髪を弄んでいたシュウは、やがて、見たいものが見れた。そう呟くと、柔らかく。マサキの口唇に自らの口唇を重ねてきた。
「……そんなに真夏の夜の夢が好きなのかよ、お前」
人目も憚らないシュウの行為に途惑いながらも、口付けを黙って受けることにしたマサキは、シュウの口唇が離れると同時にそう口にしていた。
喜劇よりも悲劇を好みそうな男だ。確かにそうした舞台にも造詣が深そうではあったものの、見たいものを見れたと口にするからには、それだけの理由が存在している筈だ。理屈っぽい男は、ただ好きだから、程度の感情ででそこまで口にするような可愛らしい性格をしてはいないのだ。
何が一体、そこまでシュウを満足させたのか。マサキは知りたかった。けれども、次の瞬間。まさかとシュウは肩をそびやかしてみせた。なら、何故。訳がわからないマサキは、相当に怪訝な表情をしていたに違いない。ふふ……とシュウが忍び笑いを洩らす。
マサキの疑問に答えるつもりがあるのだろうか。シュウはそっとマサキの耳元に口唇を近付けてくる。
――あなたのその姿ですよ、マサキ。
そして囁くように答えを口にしてみせると、呆気に取られているマサキの目の前で、これ以上となく満足気に微笑んでみせた。
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