8月はのんびりしております。
創作活動の夏休みー!
いつも拍手有難うございます。励みとしております。
創作活動の夏休みー!
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<やられたらやりかえせ>
仕返しがしたい。ベッドで寝そべっていたマサキがそう口にした瞬間、誰にニャ? と足元で丸くなっていた二匹の使い魔が顔を上げた。
仕返しがしたい。ベッドで寝そべっていたマサキがそう口にした瞬間、誰にニャ? と足元で丸くなっていた二匹の使い魔が顔を上げた。
部屋で寛いでいる最中にしては物騒な台詞に驚いたようだ。目を丸くしてマサキを見詰めている二匹の使い魔に、「あの野郎に決まってるだろ。他に誰がいるかよ」マサキは身体を起こす。
「シュウのことかニャ?」
「この間、言い負かされたのをまだ根に持ってるのね」
「そりゃ根にも持つだろ。今に始まったことじゃなし」
ベッドの上で胡坐を掻き、宙を睨む。
ひとこと云えば倍の理屈で捻じ伏せてくるあの男、シュウ=シラカワ。どうも彼にとって、マサキの理屈は隙が多く感じられるものであるようだ。思いもよらない方面から反論を唱えられては、完膚なきまでに遣り込められてばかり。
いけ好かないこと他ない。
シュウ自身もマサキを好ましくは感じていないのだろう。でなければああもマサキの意見に自分の意見をぶつけてくるような真似もしまい。だのに、マサキの仲間たちと来た日には、絆で結ばれているだの何だのと云いたい放題。
冗談じゃねえ。マサキは激しく首を振った。
「でも仕返しってニャにをするんだニャ?」
「口じゃ負けるのは確実ニャのよ」
「だからそれを今考えてるところだ」
「剣でぼっこぼこにするのはどうニャ」
「いくらシュウでもマサキに剣で勝てるとは思わニャいのよ」
「だからって剣はないだろ」
確かに彼にマサキが勝てるのは剣技の腕くらいだが、口論に負けたぐらいで剣を持ち出すなど、子どもの喧嘩にも限度がある。
何より筋が通らない。口でやられたのなら、口でやり返すべきだ。しかし、どうやって――。マサキは宙を睨んだまま固まった。考えることに不向きな脳が悲鳴を上げている。
元々の知識に差がある以上、理屈では絶対に勝てない。さりとて、屁理屈で押し通そうにも、彼の弁舌はその程度の暴論などものともしない。むしろ喜々として屁理屈をぶつけ返してくるに決まっている。何せあの男は黙ることを知らないお喋りな使い魔の主人なのだ。
「何かいい方法ねえかな」
「無理ニャ」
「無理ニャのね」
「そう云うなよ。何か考えてくれ」
「そうは云われてもニャんだニャ。口で負けるのは確実。でも力比べは嫌じゃ、どうにもニャらニャいんだニャ」
「ドッキリとかも引っ掛からないタイプニャのよ」
「ドッキリねえ」
「簡単には騙されニャいと思うのよ。そもそもマサキ、嘘吐くの苦手ででしょ」
うーん。マサキは呻いた。
あの男が騙されるところを見てみたくはある。だが、腹芸が苦手なマサキは直ぐに顔に出てしまう。それに、ドッキリに引っ掛けると云ってもどういったネタで攻めたものか。
「……いや、イケるな」
少しの間。まるで天啓のように脳裏に閃いたネタに、マサキはこれだと膝を打った。
どうせ顔に出るのなら、出たところで結果が変わらないことを云えばいいのだ。そう、あの男はマサキのことを好んでいない。なら、逆をやられたらどう感じる? きっと盛大に嫌気が差した顔をしてみせるに違いない。
「ニャにを考えてるのかはわからニャいが、止めておいた方がいいと思うんだニャ」
「返り討ちにされるのがオチニャのよ」
「それはやってみなきゃわからねえだろ」
自分の考えながら、その見事さに笑いが込み上げてくる。
早くあの男を懲らしめたくて仕方がない。マサキはベッドから飛び下りると、壁に掛かっているジャケットを手に取った。袖を通す時間も勿体ない。肩にジャケットを引っ掛けただけの姿で部屋から出る。
「ニャにをするつもりニャんだニャ?」
「それは着いてからのお楽しみってな」
「嫌な予感しかしニャいのね」
不安そうな表情の二匹の使い魔とともにサイバスターに乗り込む。見てろよ、シュウ。自身の計画に胸を弾ませながら、マサキはサイバスターを発進させた。
※ ※ ※
そろそろ用件を聞かせて欲しいものですが。と、おもむろにシュウが口を開いた。
※ ※ ※
そろそろ用件を聞かせて欲しいものですが。と、おもむろにシュウが口を開いた。
シロとクロはレストランの外、チカは彼のポケットの中にいるようだ。
研究に励んでいた彼をサイバスターに押し込んで街に出ること一時間ほど。ぶらぶらと大通りをそぞろ歩きしながら、他愛ない世間話に興じるマサキを不審なものを眺めるような目で見ていたシュウと昼食を取りに入ったレストラン。シュウがマサキにそう尋ねてきたのは、注文を終えたタイミングでだった。
「偶にはこんな日があってもいいだろ」
「気紛れで私を街に引っ張り出したと?」
「いけないかよ」
「何の理由もなくあなたが私を誘ってくるとは思えませんね」
日頃の関係が関係なだけに、流石に勘が働いたようだ。冷ややかな眼差しを向けられたマサキは、その視線を無視して、再びメニューブックを開いた。
ハンバーグステーキを頼んではいるが、それだけだと物足りない気がしている。つまみ的なものでもいいからもう一皿欲しい。そう考えながらメニューを眺めれば、手持無沙汰な様子に映ったのだろう。先に種明かしをしては如何です。と、シュウが催促してくる。
「何だよ。俺はそんなに信用がないってか」
「ありませんね」
どうやらマサキの態度に焦れているようだ。シュウが指先でテーブルを叩く。
マサキは眉を顰めた。
確かにマサキがシュウを街に連れ出したのは下心あってのことだったが、だからといって日頃の働きまでもをなかったことにされる筋合いはない。サイバスターの操者としてすべきことはきちんとこなしている。しかも、不覚を取ってばかりならまだしも、きちんと結果を出し続けているのだ。
そもそも、忘れた頃にマサキの許に厄介事を持ち込んでくるのは、他でもないシュウ自身だろうに。
信用していない相手に物を頼むんじゃねえ。ついつい腹立ち紛れの言葉を吐き出してしまいそうになるが、ここで揉めては今日の目的の為に払った労力が無駄になる。シュウに一泡吹かせると決めたからにはやり遂げなければ。マサキは寸でのところでその言葉を飲み込んだ。
けれども、ただ肩を竦めてみせただけのマサキに、シュウは更に不信感を募らせたようだ。すっと手を伸ばしてきたかと思えば、真面目に話をしろとばかりにマサキの手元からメニューブックを取り上げてゆく。
「おい。人が見ているものを」
「理由を聞かせていただけたら返してあげますよ」
「面倒臭いヤツだな、お前」
「その面倒臭い男をここまで引っ張り出した理由は何です」
どうあってもマサキから理由を聞かねば気が済まないようだ。
仕方がないとマサキは頭を掻いた。
いつでも余裕綽々な男の警戒心を隠そうとしない姿。絶対に見られないものを目にしているマサキとしては、決定的な言葉を口にするのはもう少し先に延ばしたいところだったが、欲を掻き過ぎた結果、彼から強烈なしっぺ返しを食らわされたでは話にならない。
彼を揶揄うのは、ここいらで潮時にするべきだろう――マサキは覚悟を決めてシュウに向き直った。
まだマサキには最後のカードが残されていた。これを出さずして終われない。見てろよ、シュウ。マサキは込み上げてくる笑いを抑えきれずに口元を緩ませた。
「そりゃ、勿論。お前のことが好きだからに決まってるだろ」
それで全てを納得したのか。シュウの口元に不穏な笑みが浮かぶ
「……そうでしたか」
テーブルの向こう側から伸びてきたシュウの手が、マサキの手をやんわりと掴む。白く節ばった長い指。マサキと比べれば逞しさに欠けるきらいがある。その指が、マサキの指に絡んだ。
「おい、お前何を」
突然のシュウの豹変にマサキは気圧された。
「ちょ、止めろって……」
最早、仕返しだの何だのと云っている場合ではない。
藪を突いて蛇を出したマサキは焦って手を引っ込めとようとした。けれどもシュウの手は離れない。むしろより力強く、そして深く指を絡めてくる。
待てって。マサキは顔を上げた。ひんやりとした手の温もりからは想像も付かないほどに熱い眼差し。真っ直ぐに自分を|凝視《みつ》めている双眸の揺らめきに、何故かマサキの鼓動が早まる。
次の瞬間、もう片側の手までもが伸びてきたかと思うと、指が絡まった手の上から覆い被さってきた。やんわりと撫でられる手の甲。もう、どう言葉を返せばいいかわからない――マサキはひたすらに狼狽えた。
「私もあなたが好きですよ、マサキ」
次いで、マサキの顔を覗き込んできたシュウがそう囁き掛けてくる。
彼の低くも甘い囁き声に、マサキは言葉を詰まらせた。
切なさを伴って胸を締め付ける痛み。理解不能な感情が胸の内に湧き上がってくる。マサキは目の前にあるシュウの顔を直視出来ないぐらいの羞恥に襲われた。けれどもそれは周囲の客の視線に感じているものではなく。
――あれ? こいつ、こんな綺麗な顔してたっけ……?
やたらと眩しく見えて仕方がないシュウの顔が、マサキをいたたまれない気分にさせる。
「あの、俺……」
途惑いつつも、ようやくそうとだけマサキが言葉を口にした矢先だった。するりとシュウの手が離される。
驚いて顔を上げたマサキの目に飛び込んできたのは、今にも声を上げて笑い出しそうなシュウの顔。
「冗談ですよ、マサキ。本気にするなどあなたらしくない」
マサキは我に返った。そしてようやく事情を把握した。
どうやら担ごうとしたつもりが、担ぎ返されてしまったようだ。
即座に脳裏に浮かぶ二匹の使い魔の呆れ顔。ああ、くそ。彼らの予想通りにシュウにしてやられてしまったマサキとしては歯噛みするしかない。
「――私を担ぐなど十年早いのですよ。わかりましたか、マサキ」
まるでタイミングを見計らったかのように、そこで飲み物がテーブルに届けられる。もう少し策を練るのですね。ティーカップを手にしたシュウが、そう続けて紅茶を啜る。澄ました顔が憎らしい。マサキは口惜しさに地団太を踏みたくなる気持ちを抑えながら、オレンジジュースが注がれたグラスに手を伸ばした。
<MORNING TALK>
あー、もしもし? ……何だよ、お前か……何の用だよ。俺、寝てたんだぞ……はあ? 今から出て来いって、まだ朝早いだろ。寝かせろよ。後で幾らでも付き合ってやっから……え? 何、云ってんだよ。十分で着替えて髪セットして歯磨いて出て来い? お前なぁ。自分が出来ないことをどうして俺にやらせようとするんだよ。自分の支度にどれだけ時間がかかってるかわかってるのか? 短くても三十分はかかってるだろ。無理だって、無理。せめて二十分……お前なあ。十分、十分って、しつこいぞ。こうして話をしてる間にも時間が過ぎてるってのに……まだ云うか。何度も云わせんなよ。直ぐにそっちに行くのは無理……は? そこまで出てきてる? 何しに? 朝靄が綺麗だからぁ? お前、本当に馬鹿じゃねえの。朝靄ぐらい珍しいもんじゃねえだろ。それをわざわざ一緒に見ることに何の意味が……え? 二重の虹も出てるって? 本当だろうな。嘘だったらただじゃおかねえぞ。わかった。五分で行くから、虹が引っ込まないようにしとけよ。ええ? どうやるかって? 知るか。でも、お前なら出来るだろ。頼んだぞ。じゃ、直ぐ行くから……。
※ ※ ※
「マサキさんも無茶云いますね。幾らご主人様でも自然現象をどうにかするなんて無理なのに」
<MORNING TALK>
あー、もしもし? ……何だよ、お前か……何の用だよ。俺、寝てたんだぞ……はあ? 今から出て来いって、まだ朝早いだろ。寝かせろよ。後で幾らでも付き合ってやっから……え? 何、云ってんだよ。十分で着替えて髪セットして歯磨いて出て来い? お前なぁ。自分が出来ないことをどうして俺にやらせようとするんだよ。自分の支度にどれだけ時間がかかってるかわかってるのか? 短くても三十分はかかってるだろ。無理だって、無理。せめて二十分……お前なあ。十分、十分って、しつこいぞ。こうして話をしてる間にも時間が過ぎてるってのに……まだ云うか。何度も云わせんなよ。直ぐにそっちに行くのは無理……は? そこまで出てきてる? 何しに? 朝靄が綺麗だからぁ? お前、本当に馬鹿じゃねえの。朝靄ぐらい珍しいもんじゃねえだろ。それをわざわざ一緒に見ることに何の意味が……え? 二重の虹も出てるって? 本当だろうな。嘘だったらただじゃおかねえぞ。わかった。五分で行くから、虹が引っ込まないようにしとけよ。ええ? どうやるかって? 知るか。でも、お前なら出来るだろ。頼んだぞ。じゃ、直ぐ行くから……。
※ ※ ※
「マサキさんも無茶云いますね。幾らご主人様でも自然現象をどうにかするなんて無理なのに」
|彼誰時《かわたれどき》の平原を覆う朝靄。白んだゼオルートの館を眺めるシュウの肩でチカが呆れ顔になった。
「研究だけは進めているのですがね」
屋根に架かる二重の虹は溜息が出るほどに美しい。そろそろ光を帯び始めた太陽が、うっすらと辺りを照らし出す。まるで幽明境に足を踏み入れたような気分だ。シュウはチカとともにマサキの訪れを待った。
「止めてくださいよ。ご主人様が云うと、その内、本当に出来るようになりそうで怖いんですから」
「出来るようになる為の研究だというのに、おかしなことを云いますね」
シュウはクックと声を潜めて嗤った。
足元を濡らす露。脛を覆う青草が、風に吹かれて揺れている。
「その研究、何かの役に立つんですか?」
「さあ、どうでしょうね」
「役に立たない研究をするなんてご主人様らしくない」
「景色を留めておけたら面白いでしょう。それに、今日みたいな日には役に立つ」
「大丈夫ですか、ご主人様。何だかトチ狂った台詞に聞こえますけど」
シュウはそれには答えなかった。
朝靄の奥に映る影。どうやら滅多に見られない景色に気持ちを急き立てられたようだ。十分も経たぬ内にゼオルートの館の門を開いて姿を現わしたマサキに、シュウの口元がつい緩む。あー、やだやだ。そのシュウの顔を覗き込んでチカが顔を顰める。
「ホント、幸せそうな顔をしちゃって」
徐々に近付いてくるマサキに、シュウは軽く片手を上げた。
どこだよ。息せ切って駆けてきたマサキに、ゼオルートの館を指差す。来た道を振り返ったマサキの顔が緩む。シュウはその肩にそっと手を回して、彼とふたり。朝靄をまたぐ二重の虹を見上げた。
<愛情と背徳の狭間>
<愛情と背徳の狭間>
人けのない通路をマサキは連れを持たずに歩いていた。使い魔さえもいない道のり。宇宙空間を往く戦艦はしっかりと温度管理がされていたが、その硬質的な印象もあってか。複層合金プレートが張り巡らされた通路の空気はやけに寒々しく感じられた。
床を踏む度に靴底がカツカツと音を立てる。
反響具合によるものだろう。真後ろから耳を撫でてくる靴音に、マサキは幾度も足を止めて背後を振り返った。カツン……カツン……自分の靴音だとわかっていても気味が悪いこと他ない。
自分の足音から逃げるように足を速め、通路の先を急ぐ。
何処かわからない区画に迷い込んで三十分以上が経過していた。
ロンドベルの巨大な戦艦の内部は、方向音痴のマサキにとっては迷宮のようなものだ。飾り気のない壁と床の所為で、どの通路も同じ形をしているように見えて仕方がない。だからマサキは迷わずに済むようにと、なるべく誰かと行動をともにするようにしていた。
はぐれたのだ。
食堂に向かう予定だった。生活用施設は艦の中層部に集まっていて、割り当てられた部屋から食堂までは、普段であれば五分も歩けば着く。それでもマサキは油断をしなかった。仲間が迎えに来るのを待ってから居住スペースを出たマサキは、彼らの後に続いて、真っ直ぐに食堂に向かっていた――筈だった。
あー、もう。マサキは声を上げた。
娯楽の少ない戦時中において、食事はその最たるものだ。ゲル状、或いはゼリー状のレーションが栄養補給の要となる戦闘時。長時間戦闘ともなれば尚更だ。さっと飲み込んで戦列に復帰する日々で、形のある固形物を口に出来る機会などそうはない。
ましてや、艦には先日の補給で豊富な食材が積み込まれたばかり。これで食事のメニューに期待をしない方がどうかしている。
それだのに。
仲間はおろか、使い魔ともはぐれてしまっている今、マサキはひとりでこの苦境を乗り越えなければならなかった。食堂に辿り着く為には、とにかく人がいる区画に出る必要がある。マサキは自分を奮い立たせて、カーブを描いて続いている通路の先に目を遣った。相変わらず人けのない通路が続いている――と、その向こう側から細く長い人影が現れた。
マサキは目を瞠った。
天の助けだ。
ところが運命は、そうは容易くマサキに微笑みかけてくれなかった。靴音を高らかに響かせながら、徐々に近付いてくるシルエット。遠目にぼんやりと映っていた人影がその輪郭を露わにする。それを見て取ったマサキは、脱力感と無力感、そして絶望感に苛まれた。
シュウ=シラカワ。
かつて敵対していた男とマサキは、今は協力関係にあった。
サーヴァ=ヴォルクルスの支配が解けた彼は、最早、以前のように世界に牙を剥くような存在ではない。それがわかっていながらにして尻込みしてしまうのは、彼の性格や気質がマサキと対立するものであるからだ。
繊細な激情家である彼は、穏やかな反面、|皮肉屋《シニカル》でもある。気に入らない相手には容赦なく嫌味を吐き、黙り込むまで攻撃の手を緩めはしない。特にマサキに対してはそれが顕著で、一分で済む話が十分になることも珍しくなかった。
しかも頭脳明晰ときたものだ。
彼の弁舌に太刀打ちするのは、口達者なマサキでも難しい。たかだか道を尋ねる程度のことでありながら、マサキが躊躇ってしまったのはだからだった。いつ食堂に辿り着けるかもわからないのに、余計な体力を消耗したくない。早くも数メートル先に迫っている男の影に、マサキは決心を固めた。無視をして遣り過ごす。口さえきかなければ諍いが起こることもない。
ゆっくりと、なるべく自然に、そして無言で彼の脇を通り抜ける。
刹那、強い力で腕を掴まれたと思うと、有無を云わせずに身体が壁に押し付けられた。何をしやが……発した言葉が全てを露わにすることなく、シュウの口に飲み込まれてゆく。マサキは空いている手を振り上げた。彼の胸を叩き、その激しい拘束から逃れようともがく。けれども深く合わさった口唇はぴくりとも動かない。
口腔内でマサキの舌に絡み付いてくる彼の舌はまるで蛇のようだ。うねり、猛り、獲物を捕食せんと激しく動き回る。いつなんどき誰かが通りかからないとも限らない場所でいい度胸だ。息苦しさに目を細めたマサキは手を下ろした。
この男はいつもそうだ。身勝手にマサキを奪う。
気紛れに、唐突に、意識しない場所で触れてきては、マサキの身体を浚ってゆく。そしてえもいわれぬ快楽でマサキの心を溶かしてゆく。まるで遅効性の毒だ。ゆっくりと身体に回っては、いつの間にか身動きが取れなくなる……マサキはその激しい口付けに応じながら、そろそろと胸を焦がしてゆく情動に身体を熱くした。
どうしようもなく憎たらしくて堪らないのに、どうしようもなく恋しくなる。
舌を絡めた分だけ、増してゆく愛おしさ。情に絆されているだけなのはわかっていた。そう、思いがけず温かなシュウの肌の温もりに惑わされているだけなのだと。
「迷ったのですか」
ややあって剥がれた口唇が、まるで睦言を囁き掛けるように甘い戦慄を奏でる。
「食堂に行きたいんだよ。連れていけ」
「その後に私に付き合ってくださるのなら」
「馬鹿じゃねえの、お前。飯の後に付き合えって、腹に入ったもんが出ちまうだろ」
「なら、今付き合ってもらいましょうか。食事はその後の方が都合がいいのでしょう」
云って、もう一度口付けてくるシュウに、マサキは今度は素直に目を閉じた。下げた手を持ち上げ、襟を掴む。そうして、思うがままにその口唇を貪る。
舌を絡めて口付ける。たったそれだけの、行為。プラーナが枯渇し易いマサキにとっては当たり前な行為がこんなにも心地良いと感じられるようになったのは、彼との口付けを知ってからだった――……。
少しだけだぞ。顔を離してマサキは云った。
勿論ですよ。整い過ぎたきらいのある顔が、優美に微笑む。
氷上に咲く花のように、冷ややかながらも艶めいている。彼の深い色を湛えた紫の瞳を真正面から見据えたマサキは、その中に映っている自らのしどけない顔つきにはっとしながらも、誘惑には抗えずに。シュウと肩を並べて、人けのない通路を歩んで行った。
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