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あおいほし

日々の雑文や、書きかけなどpixivに置けないものを。

命の限り(前)
この作品は、物理の本に収録される「安藤正樹の後悔」の番外編です。



<命の限り>

 マサキ。と、誰かが呼んでいる声で目を覚ました。
 上半身を起こしたマサキは周囲を見渡した。八畳ほどの広さがある石室は、壁に壁画のような絵文字が彫り込まていた。他には何もなかった。マサキ。何だか背中が痛む。どうやら石畳の上に寝かされていたようだ。マサキ。|三度《みたび》呼ばれた自分の名に、マサキは脇にすらりと伸びている二本の脚の持ち主に目を遣った。
 見覚えのない顔。
 緩くウェーブを描いて流れる髪の下から切れ長の瞳が覗いている。ほっそりとした顎に筋の通った鼻梁、そして薄く形のよい口唇と非常に整った顔立ちをしている男は、けれども白さが際立つ肌の所為だろうか? マサキには人間味に乏しいように感じられた。
「記憶はありますか」
 低く流れ出る声が問い掛けてくる。
 安藤正樹。二十一歳。
 直ぐに浮かんできた自分の名前と年齢に、この男は何を尋ねているのだろうとマサキは首を傾げた。けれどもそれは少しも経たぬ内に焦燥感に変わった。その先の記憶がない。自分が安藤正樹であるという意識は確かにあるのに、それを形作っている筈の記憶がごっそり抜け落ちている。
 これは、何だ。
 訳がわからなくなったマサキは男の顔を再び見上げた。
「あのよ、俺……」
 その言葉で男はマサキに何が起こっているのかを覚ったようだ。やはり。重々しく言葉を継ぐと、その姿勢のままでは威圧感を与えるだけだと気付いたようだ。その場に腰を落として、マサキの顔を正面から覗き込んできた。
「大丈夫ですよ。じきに戻ります」
 それは意外にも、柔らかな響きだった。
「本当に、戻るのか」
 けれども、マサキは胸に溜まった不安を消化しきれずにいた。
 見覚えのない石室に、見覚えのない男。そしてあった筈なのになくなっている自分の記憶。名前と年齢しかわからないこの状況で、どうやってマサキは男の云うことを信じたものか悩んだ。
 もしかするとこの男は、マサキの記憶がないのをいいことに、適当な話をでっちあげようとしているのではないか? いや、それ以前に、マサキが記憶を失っているのはこの男の所為ではないのか? 疑心暗鬼に陥ったマサキは、自分の問いに力強く頷いてみせた男の毅然とした表情を目にしても尚、彼のことを信じ切れずにいた。
「先ずはここを出ましょう。あなたを仲間の元に返さなければ」
 記憶のないマサキには、男の言葉の全てが謎めいて聞こえる。
 けれども、他に頼るべき相手もない。マサキの手を取って立ち上がらせた男に続いて薄暗い石室を出たマサキは、地上に続いているようだ。光が差し込む長い階段を登ってゆきながら男に尋ねた。
「仲間って、誰だ」
「あなたと長くともに戦ってきた仲間たちですよ」
「戦ってた?」
 そう。と、頷いた男はそれ以上の説明をすることはなかった。
 続く沈黙が耐えきれない。沈んだ気持ちに足が重くなる。かといって、先往く男のスピードが落ちる気配もない。マサキは必至になって男の後を付いて行った。
 ややあって、輝きを増した光の向こう側に外の景色が見えてきた。
 マサキ。
 自分の名を呼ぶ何人もの声。仲間のものであるのだろうか。一歩外に足を踏み出すと同時に彼らに囲まれたマサキは、それらの顔をまじまじと見詰めた。覚えがあるような……ないような……不確かな感覚に、マサキはどう反応をすればいいかわからなくなった。
 男の言葉からするに、彼はマサキをこの『仲間』たちの許に返すつもりでいるようだ。
 マサキは輪の外に立っている男を見遣った。暗がりでも白んで見える彼の肌は、太陽の光の許ではいっそう白く映る。本当に大丈夫なのだろうか。まるで仲間と一緒にいるマサキには興味がないといった表情でいる彼に、増々マサキはどう反応すればいいのかわからなくなる。
 けれども、マサキの『仲間』たちの話は、マサキに幾つかの収穫を与えてくれた。
 安藤正樹、もとい、マサキ=アンドーは、先の過酷な戦闘で命を落としてしまったこと。それを例の男が禁術に指定されている蘇生術を用いて生き返らせたこと。数時間の死がマサキの脳に悪影響を及ぼしてしまっていること。けれども時間が経ち、脳が正常な働きを取り戻せば、その記憶もまた取り戻されること……。
 流石にこれだけの人間を動かして嘘を吹き込んでくることもあるまい。彼らの話を信じることにしたマサキは、男に短く礼を述べた。そして、仲間とともにその場を後にすると、これまで住んでいたらしい住居に戻ることにした。

※ ※ ※

「やるんじゃないかとは思ってたから、別に驚きはしないけれどもね」
 シュウの姿を見るなり黒檀のデスクに肘を乗せて一服と煙草に火を点けたセニアに、成果を報告しに情報局を訪れたばかりのシュウは苦笑を浮かべずにいられなかった。
 死したマサキの身体を腐敗しないように保存した上で、シュウの許に運び込むように命じたのは他でもない彼女である。この結果は予想が付いていたことであるだろうに。だのに彼女は、まるで例をみない悲劇的な結末が招かれてしまったかのように振舞っている。
「ご不満ですか、セニア」
「もっと穏便な手段を取ってくれるんじゃないかって、期待していたのよ」
 執務室内に漂い始めた紫煙に|煙《けぶ》るセニアの表情は、シュウの目には不貞腐れているように映った。
 不慣れな煙草を吸い、自ら招いた結果を嘆いてみせる。矛盾を孕んだ彼女の態度が、例えようもなく滑稽なものに感じられるのは、マサキの死が確定すればしたで、彼女がかつてなく取り乱すのがわかっていたからだ。
 かれこれ二年が経過していた。
 初めてマサキが戦闘で傷を負って州軍病院に運び込まれたその日、情報局の女傑と謳われ、その地位を確固たるものとしていたセニアは、らしくなく取り乱した様子でシュウに連絡を入れてきた。
 ――マサキが病院に収容されたの! 
 長い付き合いの従妹は、シュウに張り合うぐらいには肝が据わっている。それはどういった窮地に陥ろうとも簡単には弱音を吐かないぐらいの逞しさでもあった。その彼女がシュウに見せた弱味。後にも先にも聞くことのなかった声をシュウは彼女なりの救難信号と受け止めた。
 ――大丈夫ですよ、セニア。私が必ずどうにかしてみせます。
 幸い、その時のマサキは肋骨に罅が入っただけで済んでいたこともあって、シュウに出番が回ってくることはなかったが、これまで無傷での帰還が当たり前だったマサキの負傷は、シュウにいざという時の覚悟と決意を固めさせた。
 その誓いを果たす日が来ただけのこと――シュウは目の前のセニアに嗤いかけた。そうして、続けて精霊信仰句の一節を諳んじた。
「生命の本質は魂にあり」
「よっくご存じですこと」
 ラングランで隆盛を誇る精霊信仰の教義が蘇生術に強く抵抗するものであることを、セニアとシュウは知っていた。
 自然の摂理を曲げるのは精霊の意思に背くこと。王室で嫌というほど叩き込まれた教義の数々は、今も尚シュウの胸に深く刻み込まれている。それでもシュウは、マサキの命を再びこの世に取り戻さずにいられなかった。
 彼の命だけは失えない。
 けれども王室に残ることを選んだ彼女は、そう簡単には割り切れないのだろう。自らの信仰心とマサキの命の重みとの間で板挟みになった女傑は、だからこそシュウに手放しの感謝を捧げられずにいるのだ――……。
 それがシュウには不思議でならなかった。同じ覚悟と決意をしているかのように動いてみせた彼女は、ならばシュウに何を求めていたのだろう。
「では、セニア。伺いますが、あなたは何を私に期待していたのですか。マサキの遺体を腐敗せぬように保存したのは、あなたの命令であったことでしょう。それを私に引き渡したのもあなた。そうである以上、この結末はあなたが導いたものでもあるでしょうに」
「わかってるわよ」
 深く吸い込んだ煙草の煙をふうと吐き出した彼女が投げ遣りに口にする。
「でもね、シュウ。あたしはこれでも期待していたのよ。才能に恵まれたあなたのこと。もしかしたら、邪法に頼らずにマサキを生き返らせてくれるんじゃないかって」
「そんな都合のいい話などありはしない」
 シュウは声を潜めてクックと嗤った。
 禁断の蘇生術――それは、かつて邪神教団に属していたシュウだからこそ使える邪法であった。反魂の法。古今東西の魔法文献に明るいシュウですら、それ以外に死を迎えた人間の命を再び蘇らせる術を見付けることは出来なかった。
 それどころか、今になってもそれに匹敵する魔法を編み出すことが出来ていない。
 だから邪法に頼るしかなかったのだと口にしたシュウに、鋭い眼差しを向けてきたセニアが決然と返してくる。
「なら、教えなさい。その都合のいい術を使う為に、あなたは何を代償にしたの?」
 巨大な効果を持つ術にはそれ相応の代償が求められる。魔力を持たないセニアであっても、そのぐらいの魔術教義は知っていたようだ。シュウは口元に湛えた笑みを崩すことなく、黙って彼女の顔を見詰め続けた。



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