「君の名」をは30の物語の「愁い雨」と虹の七色で拍手お題の「風青し」の続編になります。
<食事の作法>
食え。と、目の前に置かれた器に盛られたそれがどういった料理であるのか、シュウは暫く考えなければならなかった。
食え。と、目の前に置かれた器に盛られたそれがどういった料理であるのか、シュウは暫く考えなければならなかった。
炊いた米、キャベツの千切り、そしてタレで焼いた鶏肉。重なった食材の中央に半熟卵が乗っている。
渡されたフォークを握り締めること暫く。日本にいた頃の知識を総動員したシュウは、恐らく――と、公理を答えるようにはいかないマサキの料理に、不確かさを感じながら答えを口にした。
「焼き鳥丼、ですか」
当たり。と、笑ったマサキが、自分の分の丼を手に正面の席に着く。
「俺が他人に奉仕するなんて滅多にないんだから有難く思えよ」
「それは私の台詞ですが」
「お前は何だかんだで、俺に甘いだろ」
「あなたが自分の素っ気なさに自覚があったことに驚きですよ」
甘えてくることはあっても、極々稀。滅多な事では自らシュウを求めてくることのないマサキにシュウがそう云えば、はっと目を瞠ったマサキが肩を竦めてみせる。そのまま、チョップスティック――即ち箸を手に、早速と焼き鳥丼をかき込み始めたマサキに、深く追求を続けていい話でもない。
シュウは自らが手にしているフォークを眺めた。
確かにシュウはマサキのように箸を使う文化には生きてはこなかった。だが、決して使ったことがない訳ではない道具を、育った文化が異なるといった理由だけで使えないと思い込まれることには抵抗がある。
マサキ。シュウは箸を動かす手を休めることなく食事をしているマサキの名を呼んだ。何だよ。と、瞬間、手の動きを止めたマサキがシュウに視線を向けてくる。
「私にこれで食べろと」
「お前が箸を満足に使えるとは思えねえけどな」
「日本にはいたことがありますが」
「付け焼刃で使えるもんじゃねえぞ」
どうも純粋な日本人であるところのマサキは、自国の複雑な文化に一種独特な誇りを持っているようだ。お前じゃ無理だと思うけどな。そう云いながらもう一膳、箸を持ち出してきた彼にシュウは薄く笑った。
時空を隔てた世界にある自らのもうひとつのルーツに、シュウは決して関心がない訳ではなかった。今でも鮮やかに思い浮かべられる日本の風景。その文化にシュウがどれだけ辿り着きたいと、幼い頃から願っていたことか。
「……何だよ」
シュウが箸を手にして暫く。箸を置いてその様子を見守っていたマサキが、面白くなさそうに呟く。
純粋な日本人であることに対する誇りを傷付けられたのだろうか。シュウは食事の手を止めてマサキに向き直った。どうかしましたか、マサキ。微かに膨れた頬にそう尋ねてみれば、
「俺の出番がねえじゃねえか」
頬杖を付きながら、ぼそっと吐き出す。
「食べさせでもしてくれるつもりだったの?」
揶揄い半分でそう言葉を継げば、どうやら図星だったようだ。自らの感情を誤魔化しているつもりなのだろう。さっさと食え。ぶっきらぼうに云い放ったマサキが、器で顔を隠すようにして、食事の続きを始めた。
<レトログラスと気紛れと>
恐らく、マサキの趣味嗜好に合わせてくれているのだ。街に出て食事をする時、シュウが自らの嗜好に合致する飲食店にマサキを食事に連れて行くのは、五回に一回と相場が決まっていた。酒を飲む場所にしてもそう。暇を持て余して昼間から飲んだくれているような男が集まる大衆酒場にばかり足を運んで、彼が好みそうなパブやバーといった場所には中々足を運ばない。
確かにマサキは堅苦しい場が好きではなかった。
礼装を求められるような場所や、マナーを遵守しなければならないような場所はどうにも気詰まりする。
だからといって、シュウが自分の嗜好を蔑ろにしていい道理はないだろう。だからマサキは外食の度にシュウに「お前の好きな店でいい」と釘を刺しているのだが、どうも彼にとってマサキと赴くそれらの店は、彼自身の好奇心を満たしてくれるものであるようだ。こういった店こそ市井の人間の息吹が感じられるのですよ。と、物好きにも限度がある台詞を吐いてはその入り口を潜ってゆく。
回数にまで一々気を回してはいなかったものの、その日はどうやら五回に一回の日であるらしかった。
服装にまでマナーを求められるような店ではなかったものの、マサキがひとりで入店するには敷居の高い小洒落た店構え。店先に並ぶ、観葉植物とメニューボード。軒下にも植物の寄せ植えが吊り下げられている。
彼が好んで通う店は何処も内装に拘りがあるようで、店内には細かいアイテムが散りばめられていた。卓上の灯火器《ランプ》を勿論だったし、多肉植物の寄せ植えにしてもそうだ。壁には額装された旧い広告や絵画。スポットライトのようにテーブルを切り取っている照明は、隣り合う席の客がお互いに興味を持たないようにとの配慮であるらしい。
きちんと給仕服を身に纏ったウエイターに案内されて席に着いたマサキは、慣れた手付きでメニューブックを受け取るシュウを目の前に、いつまで経ってもこうした場に慣れない我が身を恨めしくも感じていた。
理解はしている。彼の嗜好がそうであると。
ただ、絶望的にマサキの柄ではない。
コース料理がメインの店のメニューリストに並ぶ見知らぬ酒。単品料理は食事用というよりは酒のともらしく、華美な更にちんまりと盛られている写真が添えられている。そのメニューに料理の金額が載っていないことに気付いたマサキは、シュウに勧められるがまますることとなった自らの格好に、彼の意図をようやく汲み取った。
「あんまり派手に金を使うなよ」
先んじてそう釘を刺せば、日頃から金額を気にしないような金の遣い方をする男は薄く|微笑《わら》った。
デザートはソルベか僅かな量のフルーツ盛り合わせのいずれか。ソフトドリンクは当然、細身のグラスに注がれて出てくる。きっと会計時に驚くような金額が記された明細を目にすることになるのだろう。マサキはシュウに気取られぬように小さく溜息を吐いた。
懐具合を気にするような資産状況にはないマサキだったが、だからといって庶民性までもを失ってしまった訳ではない。払うと云っても聞かぬシュウを目の前にして、儚い抵抗だな――マサキは半ば諦めたような気分でいた。
「この辺りでしたら、飲み易いですよ」
シュウの指が辿るメニューリストを覗き込んでみたものの、何がどれであるかわかるようなメニューではない。任せた。マサキはそう云ってナフキンを膝に広げた。
こうったことは知っている人間に任せるに限る。少なくともシュウ=シラカワと人間は、こういった場でマサキが食べられない、或いは飲めないといったメニューを|注文《オーダー》したりはしない。長い付き合いでマサキの味覚を把握しているのだろう。「なら、レッドワイン・クーラーにしましょう」と、あっさりと今日の酒を決めたシュウに、「苦くなければなんでもいい」マサキは答えた。
そのレッドワイン・クーラーが先んじてテーブルに運ばれてきた瞬間、マサキは微かに目を瞠った。琥珀色のグラーデーショントーンのタンブラーグラス。洋梨にも似たどっしりとしたシルエットは、酒を注ぐには珍しい。
「へえ。こんなグラスがあるんだな」
色合いはさておき、この形は可愛いものが好きな義妹に好まれそうだ。
既に食器類が揃ってしまっているからか。自分の好みで新しく買い揃えるということをしない義妹。目新しいものを好むマサキの嗜好にも合致する。グラスを傾けながら、こういうのが一揃いあってもいいな。ふと言葉を継げば、
「あなたにしては珍しいことを云いますね」
マサキに合わせてカクテルを嗜むつもりはないようだ。ワインをボトルでオーダーしたシュウが、こちらもグラスを傾けながら口にする。
「俺んちもそうだが、お前のところも変わり種の食器ってないじゃねえか」
云いながらグラスに視線を向ける。
どこか懐かしさを感じさせる曲面グラス。眺めれば眺めただけ雰囲気を感じずにいられなくなって、揃いにしようぜ。すうっと喉から出てきた言葉に、自分のことながらマサキは驚いた。
「お前と俺で一個ずつ。考えてみたら揃いの何かって持ってなかったしな」
けれども、澱みなく紡がれる言葉。どうやら、心のどこかで有していた願望が形となって溢れ出たようだ。
そう、彼と揃いの何か。それが自分は欲しかったのだ。長い付き合いになる割には、趣味嗜好が異なることもあって、揃いの何かを持つことなくここまできてしまった。指輪や腕時計など、身に付けるアクセサリーを揃えてみることも考えたりもしたが、いかんせん柄にもないこと。自ら云い出すのは腰が引けてしまう。
一対のグラスならそういった気負いからも解放される。我ながら妙案だ。マサキはようやく辿り着いた答えに心を弾ませながらシュウの返事を待った。
「ですが、マサキ。そのグラスは何処に置くのです」
「何だよ。嫌なのかよ」
「嫌ですね」シュウはふふと笑った。「グラスだけあって、それを使う相手が中々訪れないなどという状況は」
そう云ってワインを口に含んだシュウが、ゆっくりとグラスをテーブルに置く。
ちゃんと使いに来なさい。笑いながらも、マサキの目を真っ直ぐに見詰めて云った彼に、わかったよ。マサキは確りと頷いて、手にした曲面グラスを頭上の照明に掲げた。
<君の名を>
変わり者の王太子であった彼は、マサキたち魔装機操者にその立場に関わりなく自分を扱うようにと云ったのだという。
温和で聡明と健やかなる精神性を有する彼は、世に不平等を生み出している王族という立場を誇りに感じているようではあったが、かといってその立場を笠に着ることなく、気さくに地上人たちに声をかけていたようだ。立場の違い故に気軽に何処かへ共連れするなどといったことはなかったが、彼らがつれづれに自分の許を訪れることを大層喜んでくれていたらしい。
「凄ぇ怒られてなあ……」
懐かし気に彼の話をすることが増えた近頃のマサキは、彼と出会った当初のことをそう口にした。
「『好きに呼んでくれていい』って云うから名前で呼んだのに、後から側仕えの侍従やら側近やらから色々云われてさ。挙句の果てには元老議会で槍玉にまで上げられちまって……」
命の限りを知った王太子。世界に平和が訪れることを願っていた彼は、残された時間の少なさにより強大な力を頼ることを選択した。その、彼の野望を打ち砕いたのがマサキたちだった。長く正魔装機の操者たちを纏め上げてくれていた巨星を自ら墜とさねばならなかった無念。だからこそ、あまり誰かと振り返りたい思い出ではなかったのだろう。彼の話となると口を閉ざしてばかりだったマサキ。年に一度、彼の命日に必ずシュウの許を訪れてくる彼は、ようやく自らの気持ちに決着を付けたようだ。
「それで『殿下』ですか?」
「ミュッヘンハイマーのおっちゃんは『王太子殿下」と呼べって煩かったけどな」
そう云ってあははと声を上げて笑ったマサキが、ソファアの上、シュウに凭れかかってきながら、そろそろおっちゃんのトコにも行かねえとな。と、呟いた。
幼い頃からフェイルロードの面倒を見てきた世話役がひとり。厳格で頑迷な|侍従長《ロードチェンバレン》もマサキにかかってはこの扱いだ。豪放磊落でマイペースな性格であるマサキは、他人を自分のペースに巻き込んでしまうことがままある。特に石頭と呼ばれるカテゴリーの人間に対してそれは顕著だった。
決められた型に嵌まることを嫌うマサキだったが、社会に対する反発心といったネガティブな要因からしていることではないからだろう。無邪気な彼の魅力は一度その懐に飛び込んでみれば良くわかる。謹厳実直な侍従長をしてこの扱いを許させてしまう風の魔装機神の操者。シュウは自分の知らないマサキの人間関係を耳にする機会が増えたことを素直に喜んでいる。
「知ってるか? あの偏屈じじい、酒なんか一滴も飲まねえって顔をしてさ、ブランデーが大好物なんだぜ。自宅のコレクションが凄いの何のって。偶に里帰りした時にやる一杯が最高なんだとさ。だから、行く時にはいい酒を見付けて持って行きたいんだがな……」
ビルセイア家に仕えていたミュッヘンハイマーのことをシュウは顔ぐらいしか知りはしなかったが、マサキの口から語られただけで、いかめしい顔つきの彼が相好を崩しているところが瞼の裏に描き出される。
「なら、彼が好みそうなブランデーを見繕っておきましょう。必要になったら訊きに来なさい」
「いいのか? いや、いつも酒屋に任せきりで、こういうのどうなのかとは思ってたけどさ」
マサキ=アンドーという人間は、その人物の生の姿を表現するのが上手い。決して語彙が豊富という訳ではなかったが、彼の周りに集いし人々が彼に対して自然と懐襟を開いてしまうからだろう。彼らが最も輝けるエピソードを沢山持っているマサキの口から語られる彼らは、実に生き生きとしている。
「構いませんよ」
シュウは肩に頭を預けているマサキに目を遣った。そこには以前の思い詰めたような表情はもうない。フェイルロードのことを、その周りにいた人々のことも含めて、今の彼には懐かしく語れるだけの余裕があるようだ。ならば、私がすべきことはもうない。シュウは長く続いたマサキの物煩いが決着したことに安堵した。
「まあ、あなたの話を聞くに、ミュッヘンハイマーはあなたが持って来る酒なら何でも喜びそうではありますがね」
「そうかねえ」ふんと鼻を鳴らしてマサキが宙を睨む。「もっといい酒を持って来いって煩いぜ」
「偏屈な人間はそう簡単には喜びを露わにしませんよ」
そう云うことならば、ミュッヘンハイマーが腰を抜かすぐらいに高級なブランデーを用意することにしよう。シュウが密かに決心を付けた瞬間だった。肩から離れる彼の頭。頭の置き場所を膝へと変えたマサキが、ソファの上で身体を丸める。
「こんなこと云うのも何だけどさ、お前が王室に残らなくて良かったよ」
「私としてはその方があなたとの付き合いが面白いことになりそうだったとは思いますが」
「巫山戯ろよ、お前。堅苦しいのは嫌だからな、俺」
口元に笑みを浮かべながらシュウを見上げてきたマサキが、殿下なんて呼びたくねえよ。云いながらシュウに向けて手を伸ばしてくる。シュウは彼に誘われるがまま、上体を屈めた。首に絡まる腕。頭を上げたマサキがシュウに口付けてくる。
毎年、重苦しい空気が降り積もるばかりだったフェイルロードの命日。
それもついに終わりを告げた。
幾度か重ねられたマサキの口唇の柔らかい温もりに、シュウは彼の心変わりの理由を知りたくなったが、彼の深いところにあるその存在に絡む彼是を暴くことがいいとは限らない。
むしろ大事に仕舞い込ませておく方が、彼の為になるのではないだろうか……マサキのことであっても深く詮索することを嫌うシュウは、だからこそ自身の膝に頭を戻したマサキに、ところで――と、別の話題を提供することにした。
「気付いているのか忘れているのかわかりませんが、セニアも『殿下』ですよ、マサキ」
悪戯めいたシュウのひと言の効果は覿面だった。呆気に取られた表情がシュウに向けられる。
「今度、呼んでみてはいかがですか」
「絶対嫌だ」
困惑した表情で首を横に振るマサキにシュウは声を潜ませて嗤いながら、今日のこの日をこうしてマサキとただ懐かしい縁を振り返ることに使える喜びを――胸の内でじっと噛み締めた。
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