(15)と(16)で一場面になります。
1900字以上あるので、改行がバグるかも知れません。
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夜離れ(16)
それから、食事を終えた主人が一度その姿を消すと、エリザの手によってマサキは久しぶりの風呂に沈められた。
トイレは流石にこの職務に忠実なる召使も、仲間ではついて来なかったものだから――お陰でマサキは手探りで便器を探り当て、しゃがんで用を足さなければならなかったものの、気まずい思いは最小限で済んだものだから、入浴もそうするものだと思っていたばかりに、腰にタオルを巻いた姿だったとはいえ――相当に面食らったものだった。
それでもマサキが無事に湯船に浸かるのを見届けると、彼女は浴室の外へと姿を消した。
客間に取り付けられたせせこましいバスルームとはいえ、久しぶりの開放感。熱めの湯が気持ちいい。どうせ自分ひとりが浸かる湯とばかりに、頭まで一気に沈む。顔を、髪を包み込む湯の感触が、よもやここまで心地よいものに感じるとは! そうしてひとしきり風呂の有り難さを堪能し、マサキは湯船に浸かったまま物思いに耽る。
主人はマサキが寝付くまでマサキと話をするつもりでいるらしく、また姿を見せる予定だ。恐らくは別れが近いのだろう。目が明瞭《はっき》りと見えるようになるまで、ここに置いて貰えるとはマサキは思っていない。色の塊が輪郭を象《かたど》るようになる頃には、マサキは居場所を移されていることだろう。
ぼんやりとした色の塊は、今日一日でその色を濃くしたように感じられた。
この調子だと、主人が口にしたように、二、三日で視界は元に戻りそうだ。様々なことがままならない生活から解放されるという希望と、数日だけの付き合いだった主人とエリザとの別れに対する絶望。二人ともマサキに好意を抱いてくれているからなのだろう。わかっていたこととはいえ、袖すり合うも他生の縁――とはいかない付き合いが、恨めしく感じる程度にマサキはエリザとの別れを惜しんでいる。
主人に対してはどう、なのだろう。得体の知れないどころか、掴みどころのない、それどころか大いに不埒ですらある主人の振る舞いに、普段のマサキだったら怒りどころか物理的暴力のひとつやふたつぐらいは食らわせているだろう。これだから地上人はと言われるのは承知の上で。
それができないのは――……できないのは……
心が弱っているからなのだ。
目が完全に見えていたら、そんな風に感じることはなかっただろう。他人の空似と自分のどうしようもなさを笑い飛ばすこともできただろう。けれどもマサキは弱っている。モニカの懐妊という現実を耳にして、過ぎ去った嵐のような日々が二度と蘇ることのない過去になりつつあることに、焦り、苛立ち、悲しみ、そして諦めようとしつつあるのだ。どうせ空似なのだ。そんなことはわかっている。わかっていてそれでも縋りたい。そんな自分の愚かさに、微かな期待を捨てきれない己に、マサキはやりきれなさを押し込めるように、乾いた笑い声を発した。
そんな折。マサキの声が聞こえたからだろうか。客間に続く扉が開く。
すまない――と、言いかけたマサキの言葉が聞こえていないのか、エリザは「お背中をお流し致します」と、浴室内に入り込んできた。
女湯を覗かれる女性たちの気分というものはこういったものなのかも知れない。マサキは咄嗟に湯船に身体を深く沈めると、口を突いて出そうになった悲鳴を押さえ込んで、色の塊であるところのエリザを見た。
代わり映えのしない黒と白の塊。些か、その面積を小さくしているのは、袖やら裾やらを捲って服が濡れないようにしているからなのだろう。
男と女、浴室に二人きり――とはいえ、最悪の事態にはならずに済んでいるようである。マサキはエリザが衣装を身に纏っていることに安堵しながらも、その背中を流す用意をてきぱきと進めているらしい彼女に、「ちょっと待ってくれ」と、声を掛けた。
「完全に見えていないとはいえ、ひとりで風呂ぐらいは入れる」
「ご主人様のご命令です」それは聞くも冷徹に感じる機械的な声だった。「久しく入浴されていらっしゃらないマサキ様を、“念入り”に洗って差し上げるようにと仰せつかっております」
「何だそれは」そんなに自分は汚らしい格好だったのだろうかと、マサキは声を上げる。
エリザが日々身体を拭き清めてくれてはいたものの、ジャケット以外は着たきり雀。草むらを褥にと眠ってしまっていたのだから、ジャケットが汚れてしまっていたのは致し方ないこととはいえ、それだったらそれ以外の服も脱がせてくれてよかったものを――と、マサキは思ったものの、それを立石に水とは上手く言葉を紡げない。
「申し上げました通りにございます、マサキ=アンドー様。わたくしは、ご主人様の御命令であれば、いかなることであろうともその仰せのままに従う召使にございます」
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