安藤正樹の忘却の続編。シュウ視点の一人称です。
<白河愁の前進>
さて、どこから話をしましょうか、マサキ。
と、私は言葉を継いで思案した。私の胸の鼓動を聞くようにして、腕の中で顔を埋めているマサキが、どこからでも。と、子どものようにはしゃいだ声を上げる。正直なところ、彼が期待しているような展開は私の人生にはない。つまらなく、そして怨嗟に塗れた人生だ。それをわざわざ聞きたいと希望する辺り、彼は相当に変わっていると思う。
否、私にもそうした気持ちはあった。
マサキの過去を知りたい。それは本能的な欲求だった。彼の人生に私の知らない時間があることに耐えられない。だから私は彼の記憶に私が存在していなかったその時代に、彼がどういった生活を送っていたのかを、そして何を考えていたのかを知りたかった。けれどもそれは、彼に対する私の感情の歪《いびつ》さ以外の何物でもない。私はどうしようもなくマサキに対する占有欲が強い人間であるのだ。
だから私は敢えて目を開かなかった。私が寝ていると思って自身の昔語りをし始めた彼に。
マサキ=アンドーという青年は直観力に優れる人間だ。私の浅ましい占有欲など直ぐに見抜いてしまうまでに。手に入れても、手に入れても、手に入れた先から逃れられてしまうような風来坊気質。彼は私に不足を感じようものならば、呆気なく私の許を去ってしまうことだろう。そう思わせるドライさが彼にはある。そうである以上、静かに眠っている振りをする他には何も出来やしない。私は彼をこの世で最も必要としている人間のひとりなのだ。
「昔々のお話です」
私は覚悟を決めて言葉を紡いだ。思いがけない面でナイーブになる彼にとっては、かなり重い内容の話になることだろう。私にとってもそうだ。振り切ったと思っても追い縋ってくる過去――サーヴァ=ヴォルクルス。私と切っても切れない縁で結ばれてしまっている思念体は、過去を語る上では避けて通れない存在だ。
だから私は敢えて、物語風に語ることにした。
そう、私と彼の心を守る為に。
※ ※ ※
あるところに一人の少女がいました。名はミサキ。たおやかで風が吹けば折れてしまいそうな、草原に咲く一輪の花を思わせる少女でした。少々病弱な面はありましたが、家庭は円満。両親の愛を一身に受けて育った少女だと聞きます。
※ ※ ※
あるところに一人の少女がいました。名はミサキ。たおやかで風が吹けば折れてしまいそうな、草原に咲く一輪の花を思わせる少女でした。少々病弱な面はありましたが、家庭は円満。両親の愛を一身に受けて育った少女だと聞きます。
地上世界で恙ない生活を送っていた彼女は、ある日ひとりの少年と知り合います。
鋭い鷲のような眼差しに、意思に漲る口唇。野望を胸に地上世界に降り立ち、日本の学校に留学をした少年の名はカイオン。それが先の国王アルザール=グラン=ビルセイアが弟、のちのカイオン大公です。
どういった化学反応が彼女らの間に起こったかの詳細は省きますが、魔力の保有量に優れたミサキをカイオンは気に入ったようでした。地底世界に連れ帰り、自らの妻としたい。元老議会は地上人を王族の花嫁として迎えることには反対でしたが、父王の強い後押しにより婚姻が実現します。彼女は地底世界に迎え入れられ、王族の一員となりました。
伝え聞いた話によれば、暫くの間はふたりの仲は順風満帆だったようです。傍目にも仲睦まじい大公夫妻。特にミサキは一般家庭の出でしたから、王室の風習には慣れないことも多かったでしょうが、カイオンのサポートを受けながら、それらにも一生懸命に取り組んでいたのだそうです。無論、ラ・ギアスに限らずラングランの地上人蔑視の風潮は根強いものでしたが、それらに屈することのなかった彼女は、やがて国民に多大なる支持を受ける大公妃へと成長しました。
それが決定的に壊れたのが、私の誕生でした。
父カイオンには野望がありました。地上世界の属世界化。地上世界に不干渉と云いながら、技術レベルを調査するなど、ラングランの行動に不穏な部分が多かったからでしょう。地上世界の影に怯えながら地底世界の平和を守るくらいならば、地上世界を地底世界が支配してしまえばいい。そう考えていたようです。
その為に、父カイオンは強力な力を有する我が子を欲しました。王室に必要されるくらいに優秀な子どもが出来れば、その子どもを使って王室内に自身を中心とした盤石な基盤を築くことが出来る。さすれば地上世界への侵攻も可能になるーーと、考えたようです。母ミサキを彼が妻にと望んだのも、我が子に伝わる遺伝的要素の為。私が生まれた以上は、下手な小芝居をする必要もなくなったのでしょう。私が物心つく頃には、既に両親の仲は修復不可能なまでに冷え切ってしまっていました。
当然ながら父の野望は打ち砕かれます。
側近のひとりが裏切ったのです。
国家謀略罪の罪に問われた父は牢獄に捕らえられ、地上へと放逐されることとなりました。父の野望を私が知るのはその処分が決まってからでしたが、暫くは信じることが出来ない程に、私に対しては優しい父親ではありました。
幼くしてマクソード家の名代を務めることになってしまった私に、母はどう感じたことでしょう。それは私にはわかりません。けれども、父が私を可愛がっていたことが、彼女の胸にしこりを残していたのは間違いないのです。彼女は私を父同様に可愛がってはくれましたが、その話の内容には地上への望郷を感じさせるものが多く、私は複雑な気持ちを抱えながら母とふたりきりの人生を歩み始めなければなりませんでした。
私がいなければ、彼女は仮初めであれど幸福な人生を送れていたのです。
転機は私が九歳の時に訪れました。ルオゾール=ゾラン=ロイエル。あの男が我が家に出入りをするようになったのです。
私は家の名代を務めていましたが、それは名ばかりのものでもありました。実権は実績を有する母が持ち、私は書類にサインをする程度。それもその筈。王室で受けなければならない教育や、覚えなければならないしきたりは膨大です。それらをきちんと身に付けてないことには実務を任せる訳にはいかない。母はマクソード家の方針をそう固めていました。
ですから私は気付けなかったのです。
ルオゾールが母を洗脳していたことに。
地上世界の人間である母と、地底世界の血を引く私では、扱いが大きく異なりました。しかも、アルザール伯父の嫡男フェイルロードは将来を不安視される魔力量です。自然私に対して期待が集まるようになってしまった王室。母がその現実をどう考えていたかわかりませんが、私は身をもってその現実を感じる機会が多かったものですから、否が応でも意識をせざるを得ません。祭祀や行事での席順、家庭教師から与えられる課題の量、武術や魔術の訓練にしてもそうです。一大公家の嫡男がこなすにはあまりも多過ぎるタスクの量。それが私をマクソード家の実情を知る機会から遠ざけてしまったのです。
私がもう少し、マクソード家の実情を把握していれば、彼に付け入る隙など与えずに済んだことでしょう。ルオゾールの正体が邪神教団の神官であることも、私が彼の身上調査を誰かに頼んでいれば明らかになっていに違いありません。王家に食い込むことで、王家より世界へと混乱を齎そうと画策するルオゾール。私さえしっかりとしていれば、その野望を打ち砕けていた筈なのです。
十歳のある夜のことでした。その日も遅くまでルオゾールは我が家に居座っていました。物柔らかである上に、母の信頼を受けている人物です。怪しいとは感じていましたが、不信を表立って口には出来ません。私は彼らと夕食をともにし、そしてベッドで眠りに就きました。
目を覚ますと、食堂に居ました。
テーブルや椅子が片付けられ、がらんどうとなった食堂の床に描かれた魔法陣。正面には祭壇がありました。それまで目にしたことのない程の禍々しさに満ちている祭壇には、生き物が供物として捧げられていました。血と腐敗臭が満ちる食堂内で、自分が縛られて魔法陣の上に転がされている。私は激しく混乱しました。何故ならその場にナイフを片手に立っている母の姿があったからです。
――大丈夫よ、愁。直ぐに終わるわ。
虚ろな瞳で私を見下ろす母親の表情からは、一切の感情が窺えない状況でした。母が正気を失っていると判断した私は、必死になって母を元に戻すべく声を上げました。かあさま、かあさま。けれども母が正気に戻ることはありません。それどころか、騒ぎを聞き付けた使用人さえ出てくる気配がないのです。
直後、私は母に刺されました。
鋭い痛みに、私は気を失いました。自分の命の終わりを覚悟しながら……。
それがサーヴァ=ヴォルクルスとの契約の儀式であったと私が知るのは、意識を取り戻したのち。厚顔にも再び私の目の前に姿を現したルオゾールに、母が王宮警察に身柄を確保されたと聞かされてからでした――……。
※ ※ ※
ずるり――と、鼻を啜る音がした。
※ ※ ※
ずるり――と、鼻を啜る音がした。
私の胸に顔を沈めたままのマサキの口元から熱い吐息が洩れている。嗚呼。矢張り、彼を悲しませてしまったと思った直後、顔を上げたマサキが力一杯に私の身体を抱き締めにかかってくる。
「……悪かった」
私の頭を抱えて、喘ぐように言葉を吐いたマサキに、私は「何故?」と問うことしか出来なかった。
欲を抱えていたのは私も同様だったのだ。
彼の過去を知りたい。私は自身の欲が満たされた喜びに対する礼として、自分の過去を彼に語って聞かせたのだ。勿論、それは彼が望んだからでもある。望まぬ自己開示など有難迷惑以外の何物でもない。そうである以上、彼が謝罪をしなければならない道理などどこにもないだろうに。
「辛い話をさせちまった」
私は彼の腕を解いて、その頬に手を這わせた。
温かい。ぬくもりが指を伝って、私の心にまで届く。
彼で良かった。私はその瞬間にそう思った。私の隣に居てくれるのが、マサキ=アンドーという稀代の戦士で本当に良かったと。
私がマサキという男に惹かれたのは、彼のしなやかな精神は勿論のことだったが、我知らず他人を包み込んでしまうだけの包容力を有しているからでもあった。そう、ぶっきらぼうな態度も目立つ彼は、ここ一番では絶対に他人を否定しない。マサキは根本的に優しい人間であるのだ。例えば八つ当たりをする相手を、ヤンキーなどの矯正が必要な相手に限るといった。
その健やかなる精神は、彼の生育環境で育まれたものである。彼の過去を知った私は、だからこそ納得した。多くを語らなかった彼ではあったが、両親の愛情を受けて育ったからこそ、両親の命を奪ったテロリストに対してあれだけの強い意志で向き合うことが出来るのだと。
「もう、辛くはないのですよ」
「嘘だ」
「本当ですよ。偶に、あの時私が刺されていなければ――と、考えることはありますがね」
「それを人は辛いって云うんだよ」
当たり前のように言葉を継いだマサキに、私は目を瞠るような思いに捕らわれた。追い縋ってくる過去に、否が応でもあの瞬間を振り返らずにいられない。それは、他人にとっては辛いと表現するに値する状態であるのだ。
それを何の衒いもなく、即座に口に出来るマサキ。
嘘や誤魔化しを許さない彼らしい反応に、何とも表現し難い感情が湧き上がってくる。そう、私は不安だったのだ。私の過去を知った彼が、気まずさに逃げてしまわないかと。マサキ。私は彼の名を呼んだ。そしてその口唇に口付けた。
深く口唇を合わせて、舌を絡め合う。混ざり合う熱が、私の心に灯る炎を赤々と燃え上がらせた。
恋しくて、恋しくて、仕方がない。
求め彷徨い、ようやく手に入れた大事な恋人マサキに、一生だ。胸の内で密やかに誓う。一生、私はマサキを手離しはしない。
「ごめんな。何も知らないままでいて」
「あなたのいない私の過去に、あなたが責任を感じる必要など何もないのですよ、マサキ」
私の過去を知っていようがいまいが、彼が変わらないことはわかっている。サーヴァ=ヴォルクルスの支配にあった私を止めるにしてもそうだ。知っていたからといって手心を加えるようなことは決してない。そうである以上、彼は己の信念に従って私を斃したことだろう。
命の償いは命で以て行使されるべきなのだ。
だが、知っているといないとでは命の重みは異なる。月での決戦で、私にとどめを刺して泣いた彼。憎むべき敵であった私に対してさえ、そういった反応をする人間なのだ。私の過去を知った上で――となっていたら、それ以上のやりきれなさを感じていただろう。
だから、これでいいのだ。彼が私の過去を知るのは、彼が余計な苦しみを感じることのなくなった今で。
否、今でなければならない。
「夜も遅いですから、今日はもう寝ましょう」
私はマサキの髪を指で梳いた。彼の温もりを感じながら眠りたいと、こんなに強く感じたのは初めてのことだ。それほどに私は安心していた。彼が私の過去を逃げずに受け止めてくれたことに。
「お前、この話の流れでなんでそういうことを」
「あなたがいれば大丈夫、だからですよ」
まだ何か云いたげなマサキを抱き寄せて目を伏せる。肌越しに伝わってくる少し跳ねた鼓動が愛おしい。私はいつもよりも幸福な気持ちで、静かなる眠りに落ちて行った。
<了>
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