にょたアレルギーの話。毒吐きなので閲覧要注意。
多分、私最終的に見ただけで吐くところに行き着くんだろうなって予感がしてます。
多分、私最終的に見ただけで吐くところに行き着くんだろうなって予感がしてます。
嗜好は嗜好なので好きにやればいいと思ってるんですけど、それと個人的な好き嫌いは全く別な話なんですよね。オタクの特殊嗜好って。そもそものBLだ百合だってところにしても、本気で嫌ってる人がいる以上、そうした人たちに対する配慮は必要だと思うんですよ。
多様性ってのは我が道を往くってことじゃない訳ですよ。
最大多数の最大幸福ではない道を往き始めた人類は、「皆が或る程度の幸福を保障された世界」を目指している訳でしょ。それは「少数派の他人の権利も保障する」という意識としては当たり前だけど、現実的には当たり前ではない世界を新たに構築してゆくということでもある訳じゃないですか。
さりとてその世界が実際に構築されたとして、人の「嫌い」って気持ちはどこに行くんですか?って話になりますよね。嫌いより好きで語れって、臭いものに蓋的な理屈がネットじゃ隆盛を誇ってますけど、それがまかり通るんであればいじめなんて起こらない。戦争だって起こらない。
どれだけ頑張ったって、生理的な嫌悪感情は消せないんですよ。
仮に、この嫌いというメカニズムが解明されたとしても、嫌いという感情はなくならないしなくせない。何でなくしてはならないものであるのかは、怖れと一緒です。嫌いという感情、或いは忌避感は、自らの命を守る為に必要な感情のひとつでしょ。これなくなったらあからさまに危険な人間からも逃げられなくなります。自らが生きていく為に必要な能力を(強制的に)捨てさせていい筈なんてない。それ即ち、他人の権利の軽視。もっと云えば、種の存続をコントロールしようとしている行為に他ならない訳です。
そうである以上、嫌いだけど存在していていいという世界の構築には「住み分け」って絶対必要だと思うんですよね。そも、ここを何か勘違いしてる人が多いのが近年の多様性界隈のいざこざの原因だと思ってるんですけど、「私の嗜好はこうだからその存在を受け入れて」と「私の嗜好はこうだから見てよ」はもう全然別物じゃないですか?
前者は見知らぬ他人に寄り添ってるけど後者は見知らぬ他人を殴ってる。人は前者とは共存出来ても、後者とは共存できねー訳です。
まあねー、青年期のアイデンティティの確立の上で避けて通れない道なのかなんなのかわかりませんけど、若い内は「自分を理解してくれる他人がどこかにいる」って幻想に溺れがちなんでね、見てみて聞いて!ってなるのはしゃーねえっすよねって思ってる部分もありますし、「君らその自分でそんな至上の相手が見付かるって思ってんの?」って思っちゃう部分もなきにしも非ずなんですけど、それは私が50になってその至らなさ過ぎた自分を過去のものとして冷静に分析出来るようなったからこその視点であって、渦中にいる若者は知らない未来が圧倒的に多いんですから、「自分至上主義」に陥っている自分に気付けなくても当たり前なんですよ。
それを頑張れって見守るぐらいの人間性は私にもあります。
じゃあ何が云いたいのかって話なんですけど、この多様性に対する大いなる勘違いが、同人社会をぐずぐずに壊してるような気がして私はならない訳ですよ。正確にはTwitterにオタが流入して好き勝手始めたことが崩壊の始まりだったと思ってるんですけど、オタクという存在が表に出過ぎた結果、以前はきちんと住み分けが出来ていた(=それが嫌いな人に配慮出来ていた)ものの線引きが曖昧になってしまったんじゃないかと。
私もそうです。線引きが曖昧だったが故にクレームも受けました。
だからここはきちんとしないと駄目だなってずっと肝に銘じてるんですけど、それを突き詰めて考えていったらそもそものBLがもう配慮義務あるジャンルじゃねーかよってね、そこに行き着いてしまった訳ですよ。BLはファンタジーですし、それ云ったら物語世界なんて全てがファンタジーなんですけど、だからってそれは大っぴらにしていい嗜好かって云われると、そうじゃないよな……って。
ってことをですね、にょたアレルギーが加速していっている現状で考えた訳です。
嫌いだからって他人の嗜好を否定する気はないんですけど、でも嫌いな人に対する配慮は絶対的に必要だよなって改めて思ったんですよ。私はシュウマサを大ぴらに書くことで、見知らぬどこかの誰かを殴ってたんです。それを今更ながらに反省しました。きちんと注意文書くって決めたのに、BLは許されてるなんて思い上がってた。大反省です。
自分が引き返せないところまでにょたを嫌うようになって、ようやくその当たり前の事実に気付かされたんです。もうどれだけ精神性が餓鬼かって話ですよ。救われない。
私のにょたアレルギーは大分酷くて、「要は自分にとって高嶺の花であるキャラを自分のレベルに落としたいんでしょ」とか、「それって逆じゃね?高嶺の花なら自分が近付く努力をしろよ」とか、「てかそもそもにょたはBLじゃねえ」とか、相当にきっついことを考えたりもするようになってますし、マジで見た瞬間に脳が沸騰するレベルに至ってるんですけど(だから最終的に見ただけで吐くようになるんだろうなと予想してるのですが)、それは私のインナーワールドの話ですし、「嫌い」という本能的な忌避感に対する理由付けの一環でもあるので放っておいていただくとして、重ねての云い分になりますが、だからといってそうした嗜好が存在することまでは否定はしない訳ですよ。てか、絶対的にしちゃいけない。
だから、こちらを殴ってこないならお好きにどうぞ。
多様性ってこのひと言に尽きるんじゃないですかね。
そもそも私、オタクであることを否定されたことないですしね。戦う相手を持っていないので、大人しく生きるというこれまでのスタンスを崩す必要がどこにもない訳ですよ。(まあ、流石に50を迎えたので、同人活動については「まだやってるの!?」ってパンピーの友人に驚かれましたけど)
そういった意味ではパンピーと戦う理由はないけど、オタクと戦う理由は山程あります。
どいつもこいつも自分自分自分至上主義でうんざりするほど迷惑を被ってきた過去があるので!
だからちゃんと住み分けしようという話なんですよ。私も最近面倒臭さに何でも許せる方向けタグに逃げちゃってましたが、ここでちゃんと気を引き締めてそういうのも含めてこれからはきちんとやっていこうと決めましたので。(流石にParaphiliaについては支部できちんと前書きにこういう話だって書きましたけど)
自分の嗜好を嫌いな人の人権の尊重の為にも、注意書きとクッションは忘れず。
それを忘れずにこれからやっていこうと自分を戒める次第です。ということで、ここまで色々申し訳ありませんでした。と、これまでの無礼を詫びてこの話を締めようと思います。
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