優駿
「ペット、ですか」
黒と白の色の塊が、しなやかに平原を駆けてゆく。うららかな陽気のラングラン。蝶を追って飛び回るマサキの二匹の使い魔は、平穏無事に過ぎる今日という日を全力で謳歌しているようにシュウの目には映った。
主人をちらと振り返ることもない二匹の使い魔。跳ねてはしゃがむを繰り返している彼らの伸びやかさに心を擽られたのだろう。ご主人様、あたくしも。許可を願い出てきたチカを、いってらっしゃい。と送り出して、シュウは背後のマサキを振り返った。
「そ。お前、犬と猫ならどっちを飼うよ。それともやっぱ鳥か?」
地面にどっかと腰を下ろしているマサキが、胸を張って天に拳を突き上げる。じっとしているのが性に合わないとよくこぼす割には、この場に腰を落ち着けるつもりでいるらしい。言葉を吐きながら伸びを終えた彼に、まさか――と、シュウは口元を歪めた。
「天に羽ばたいてゆける生き物を、せせこましい籠に閉じ込めておくほど悪趣味ではありませんよ」
「それを云い出したら何も飼えないだろ」
目を大きく開いたマサキが、はあ。と溜息を洩らしながら後ろに倒れ込む。
「あなたはやはり猫ですか」
「あいつらと一緒に過ごすようになってから、猫もいいもんだと思うようになったのは確かだな」
頭の下に腕を置いてシュウを見上げるマサキの目に映るラングランの陽光。温かな光で満たされた彼の眼差しは、シュウを見ているようで見ていない。きっと、シロとクロという二匹の善良なパートナーとの日々を思い出しているのだ。シュウはマサキにそれだけの表情をさせるに至った彼の二匹の使い魔に、微かに心を疼かせた。
「でも、犬もいいんだよな。主人に忠実って感じがしてさ。シロとクロは使い魔だから、俺にとっては勝手のいいパートナーだけどさ、実際の猫はそうはいかねえだろ。気紛れだし……」
「シロとクロが聞いたら怒りますよ」
シュウは口に閉じた指を当てて、クックと笑った。
そうかねえ。マサキが眉を歪める。
感情の起伏に富むマサキの表情は、代わり映えのしない表情でばかりいるシュウからすれば、予測不可能なまでに目まぐるしく変化した。先程まで笑っていたかと思えば、次の瞬間には驚いている。そうかと思えばいきなり怒り出しもしたし、猛烈に不貞腐れたりもした。
とかく見ていて飽きない。
だからシュウは、マサキのいない時間に物足りなさを感じてしまうようになった。自分を打ち倒し、そして救い上げた英雄。これほどまでに、興味深い存在はふたつとない。彼の口から飛び出す嫌気混じりの言葉さえも、シュウにとってはまたとない宝物だ。
胸に仕舞い込んだそれらの言葉を、取り出しては繰り返し噛み締める。そのぐらいにマサキ=アンドーという青年に心を寄せているシュウは、だからこそ、この穏やかな時間の終わりを少しでも先延ばしするべく言葉を紡いだ。
「飼うのだとしたら馬ですね」
「馬ァ?」
愛玩動物と称するには些か図体の大きい生物の登場に、度肝を抜かれたようだ。スケールが違え。目を大きく見開いたマサキが飛び起きる。
「そうですよ。毛並みの美しい、脚の丈夫な馬を一頭……私はそれだけで充分ですよ、マサキ」
はあ。と気の抜けた声を発したマサキが、草の葉が絡むボトルグリーンの髪をがしがしと掻いた。
さやさやと吹き抜ける風が、彼の後れ毛を揺らしている。シュウはマサキから視線を動かし、遠くで小さく動き回っている一羽と二匹の使い魔へと目を遣った。
まだ蝶は捕まえられていないようだ。ふわりふわりと舞う蝶を追いかけるシロとクロ、そしてそれを頭上で飛び回りながら眺めているチカ。彼らがどういった会話を繰り広げているのか、シュウの元までその声は届かなかったが、放っておいてもお喋りの尽きない彼らのことである。他愛もないことを滔々と語り合っているに違いない。
シュウはその向こう側へと視線を向けた。
せり上がる大地が、薄く伸びた雲間に溶けている。
正面から吹き付けてくる暖かなラングランの風。衣装の裾に潜り込んでくる空気は、まるで産着に包れているかのように柔らかい。瞼を落としたシュウは記憶を浚った。遠い昔に白馬に乗って駆けた平原。あれは何歳のときのことだったか……。
「気が向いた時に、遠駆け出来れば最高ですね。ただ日常をともにするだけのペットよりは一体感が増すでしょう。あなたは乗馬をしたことは、マサキ?」
「子どもの頃にポニーには乗ったことはあるけどな。でもあれは、ちゃんと躾けられてたんだろうな。大人しくかっぽかっぽって歩くだけでさ……」
「なら、機会が出来たら教えて差し上げますよ」
「乗馬をか?」
「ええ」
シュウはマサキに視線を戻した。
どういった反応が返ってくるのか不安ではあったが、決してネガティブな感情を抱いたのではなさそうだ。だらしなく開いた脚の合間に両手を突いて座っているマサキがにやりと笑う。その瞳に未知なるものへの好奇心が満ちているのを見て取ったシュウは、彼がシュウの脳内にある馬のいる世界を正確に読み取ったことを察知した。
だからといって、付かず離れずの距離感を保ち続けている間柄である。マサキとしては額面通りにシュウの誘いを受け取るつもりはないのだろう。はは。と、乾いた笑い声を上げたマサキが、どこか寂し気に映る眼差しでシュウを見上げてくる。
「お前、そう云っておいて、あっさり忘れそうだからなあ」
ぼやくマサキに、シュウは微笑み返した。
「何なら今からでも私は構いませんよ」
「本当かよ!」
跳ねるようにして立ち上がったマサキの気色ばんだ顔! それだけ乗馬に関心があるのだろう。眩いばかりの笑顔を目にしたシュウは、勿論。と頷いた。
「おい、お前ら! 戻って来い! 行くぞ!」
思い立ったが吉日であるらしい。身体に付いた草を払ったマサキが、平原の奥に向かって声を張り上げる。行くぞ……くぞ……木霊となって返ってくる彼の声。静かに寄せる波の残滓にも似た響きを耳に、シュウはこちらに向かって疾ってくる一羽と二匹の使い魔を見守った。
中天には今日も輝ける太陽が座している。
溢れんばかりの自然に包まれた平原は、日常の些事に捉われることが如何に愚かな行為であるかを伝えてくるようだ。それでもシュウにとっての今日という日は輝ける思い出と化す。そう、歳を取ったその日に、ふと脳裏に蘇らせては懐かしさを感じるような。
それが私にとってのマサキ=アンドー。
シュウは早くしろと使い魔たちを急かすマサキを背後に、静かに微笑んだ。
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