今日は24時間テレビなんですって?
アナログテレビに外付けチューナーを付けて地デジ放送を見ているkyoさんの部屋のテレビ事情。この外付けアンテナ、信号の受信率が悪くて殆ど映らないものですから、テレビが最早立派な置物と化してしまっています。
私は現在、市の福祉サービスを受けて、障害者就労移行支援事業所に通っています。医者には一生病院に通って下さいと言われていますので、今更ながら障碍者という存在への理解を深めるべく勉強中です。
昔と違って、現在は障碍者と認められる枠が広がり、近年では発達障害も精神障碍者として認められるようになりました。また当然ながら、誰しもが患う可能性のある鬱も精神障害の一種として認められています。
障碍者という存在は、昔と比べてより身近な存在になったと言えるでしょう。
とはいえ、昔ながらの障碍者というイメージに捕らわれている人が多いのも事実。そういった方々のイメージの狭さには、理解の少ない私ですら驚かされることがままあります。
先日、交流のある鬱の方の意見でこういったものを見かけました。
「パラリンピックはエリートが参加するもの」
障碍者には大別して以下の三種類があります。精神・身体・知的。障碍者とひとくくりにされますが、これらの間にはわかり合えない壁が存在してしまっています。また、就労に置いても扱いに差があります。
最も優遇されているように感じるのは身体。脳の機能には問題がないと判断されるからでしょうか。反面、一番問題があるように扱われるのは、意外ですが精神です。企業における試用期間が圧倒的に長い。
そうした事情を鑑みても、身動きままならなくなる鬱の当事者にとって、快活に動き回るアスリートたちは確かにエリートでしょう。実際、アスリートの大半は身体だというイメージがあります。大体が突発的に身動きままならなくなる精神障碍者にアスリートの道を目指すというのは無理がありますですものねえ。
まあねえ、40からでも目指せる競技があるというのなら、同じ精神でもちょっとごにょごにょな私は私は目指してみたくもありますけれど、恰幅の良さとは裏腹に元が体力がない弱っちい身体をしていますので、鍛えたところで元の才能がないで終わってしまう気が。
9月の29日に地元で障碍者イベントが行われるのですが、それもメインは身体のような気がします。車いすマラソンにファンラン、ボッチャ体験……ファンランぐらいは参加してみようかなと思っているのですが、運動に適した服がないよ!!!!!
そう考えて、障碍者への理解を深める為に24時間テレビを見るのも吝かではないんじゃないの?と思ってみたものの、どう今までの記憶にある24時間テレビを振り返ってみたところで、ショーアップされ過ぎていて、何か得るものはあるのだろうかと自問自答するばかり。それだったら本の一冊でも読んだ方が余程得るものが多そうです。
そもそもがですよ、記憶が無くなる人の記憶が戻るイメージって、何か関係するものを見たからとか聞いたからとかって思われていますけれど、あれは健常者が期待する結末であって、実際はそんな都合よくはいかないものなんですよねえ。私だけかも知れませんけれど。
前にも書きましたが、私の家には元夫から貰ったアイテムがいくつかありますけれども、それを記憶が無いときに見たからといって、記憶がある状態には決してなりません。それは当たり前のように存在している物であって、それ以上にはなりません。ただそこにあるものをどうやって入手したかなんていう由来なんかには絶望的に思いを馳せられないのです。
弟が出ているメディアを見ても同様に記憶が戻るなんて好都合は起こりません。他の人と同じようにただ相手が芸能人だと思っているだけ。
記憶のある自分を知っているらしい人に出会ってもそう。私が相手を認識できなければ、私の記憶が戻るなんてことはないのです。なんて脳は面倒くさい認識能力を持っているのでしょうね。
世の中にこんな奇特な人間がどれだけいるかわかりませんが、記憶がないことを認識できない一部健忘者というのは、世の中に認識されにくい存在であると私は思っています。なにせ当人が病識を持てない上に、一部健忘では通常起こり得る忘却と区別が付き難い。
これに理解を訴えるのは難しいですよねえ。生活は出来てしまう以上、何の不都合があるのかわからない。私の場合は勝手に身体が動いてしまいますが、それだって何年かに一度ぐらいの頻度です。しかも記憶がない時にはそれも健忘してしまっている。記憶を健忘するという障害を抱えているにも関わらず、自分は健常者であるとして生きているし、生きていられるのですから、性質が悪い。
私にとって益のある障碍者イベントなんてそうはない。それは精神障碍者にとって益のあるイベントが少ないということでもあります。まあね、身体を動かすのは大事ですよ。でも、身動きままならなくなる鬱病患者にそういったイベントに参加してみては?などとはねえ、とても言えない。その前の段階が難しい局面に追い込まれているというのに!
どこに話を着地させようとしていたのか忘れてしまったのですが、障碍者参加型のイベントをショーアップして、一般の人にも理解を求めようなどという一度で二度美味しいイベントにするのは諦めた方がいいんじゃないでしょうかね。
それは別個に行うべきであって、一度に行うべきことではない。見世物にされたくないと思っている障碍者は世の中に沢山いるのです。私たちはお涙頂戴の期待される都合のいいストーリーに目を向けて欲しい訳ではなく、都合よくはいかないというその過酷な現実にこそ理解が欲しい訳ですよ。
Twitterなんかを見ていてもバズるのは一般人が期待する都合のいいストーリーですよね。その陰には何百、何千、何万という都合のよくない現実が埋もれているのです。障碍者に対する理解が及んでいるのなら、バスるはその不都合こそだと思うのですよね。
人間とはあらゆる意味において我儘な生き物です。
その事実に先ず目を向けるのが先である。
でもそれはとても難しいことでもあるのだなあ、と思う今日この頃なのです。
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私は現在、市の福祉サービスを受けて、障害者就労移行支援事業所に通っています。医者には一生病院に通って下さいと言われていますので、今更ながら障碍者という存在への理解を深めるべく勉強中です。
昔と違って、現在は障碍者と認められる枠が広がり、近年では発達障害も精神障碍者として認められるようになりました。また当然ながら、誰しもが患う可能性のある鬱も精神障害の一種として認められています。
障碍者という存在は、昔と比べてより身近な存在になったと言えるでしょう。
とはいえ、昔ながらの障碍者というイメージに捕らわれている人が多いのも事実。そういった方々のイメージの狭さには、理解の少ない私ですら驚かされることがままあります。
先日、交流のある鬱の方の意見でこういったものを見かけました。
「パラリンピックはエリートが参加するもの」
障碍者には大別して以下の三種類があります。精神・身体・知的。障碍者とひとくくりにされますが、これらの間にはわかり合えない壁が存在してしまっています。また、就労に置いても扱いに差があります。
最も優遇されているように感じるのは身体。脳の機能には問題がないと判断されるからでしょうか。反面、一番問題があるように扱われるのは、意外ですが精神です。企業における試用期間が圧倒的に長い。
そうした事情を鑑みても、身動きままならなくなる鬱の当事者にとって、快活に動き回るアスリートたちは確かにエリートでしょう。実際、アスリートの大半は身体だというイメージがあります。大体が突発的に身動きままならなくなる精神障碍者にアスリートの道を目指すというのは無理がありますですものねえ。
まあねえ、40からでも目指せる競技があるというのなら、同じ精神でもちょっとごにょごにょな私は私は目指してみたくもありますけれど、恰幅の良さとは裏腹に元が体力がない弱っちい身体をしていますので、鍛えたところで元の才能がないで終わってしまう気が。
9月の29日に地元で障碍者イベントが行われるのですが、それもメインは身体のような気がします。車いすマラソンにファンラン、ボッチャ体験……ファンランぐらいは参加してみようかなと思っているのですが、運動に適した服がないよ!!!!!
そう考えて、障碍者への理解を深める為に24時間テレビを見るのも吝かではないんじゃないの?と思ってみたものの、どう今までの記憶にある24時間テレビを振り返ってみたところで、ショーアップされ過ぎていて、何か得るものはあるのだろうかと自問自答するばかり。それだったら本の一冊でも読んだ方が余程得るものが多そうです。
そもそもがですよ、記憶が無くなる人の記憶が戻るイメージって、何か関係するものを見たからとか聞いたからとかって思われていますけれど、あれは健常者が期待する結末であって、実際はそんな都合よくはいかないものなんですよねえ。私だけかも知れませんけれど。
前にも書きましたが、私の家には元夫から貰ったアイテムがいくつかありますけれども、それを記憶が無いときに見たからといって、記憶がある状態には決してなりません。それは当たり前のように存在している物であって、それ以上にはなりません。ただそこにあるものをどうやって入手したかなんていう由来なんかには絶望的に思いを馳せられないのです。
弟が出ているメディアを見ても同様に記憶が戻るなんて好都合は起こりません。他の人と同じようにただ相手が芸能人だと思っているだけ。
記憶のある自分を知っているらしい人に出会ってもそう。私が相手を認識できなければ、私の記憶が戻るなんてことはないのです。なんて脳は面倒くさい認識能力を持っているのでしょうね。
世の中にこんな奇特な人間がどれだけいるかわかりませんが、記憶がないことを認識できない一部健忘者というのは、世の中に認識されにくい存在であると私は思っています。なにせ当人が病識を持てない上に、一部健忘では通常起こり得る忘却と区別が付き難い。
これに理解を訴えるのは難しいですよねえ。生活は出来てしまう以上、何の不都合があるのかわからない。私の場合は勝手に身体が動いてしまいますが、それだって何年かに一度ぐらいの頻度です。しかも記憶がない時にはそれも健忘してしまっている。記憶を健忘するという障害を抱えているにも関わらず、自分は健常者であるとして生きているし、生きていられるのですから、性質が悪い。
私にとって益のある障碍者イベントなんてそうはない。それは精神障碍者にとって益のあるイベントが少ないということでもあります。まあね、身体を動かすのは大事ですよ。でも、身動きままならなくなる鬱病患者にそういったイベントに参加してみては?などとはねえ、とても言えない。その前の段階が難しい局面に追い込まれているというのに!
どこに話を着地させようとしていたのか忘れてしまったのですが、障碍者参加型のイベントをショーアップして、一般の人にも理解を求めようなどという一度で二度美味しいイベントにするのは諦めた方がいいんじゃないでしょうかね。
それは別個に行うべきであって、一度に行うべきことではない。見世物にされたくないと思っている障碍者は世の中に沢山いるのです。私たちはお涙頂戴の期待される都合のいいストーリーに目を向けて欲しい訳ではなく、都合よくはいかないというその過酷な現実にこそ理解が欲しい訳ですよ。
Twitterなんかを見ていてもバズるのは一般人が期待する都合のいいストーリーですよね。その陰には何百、何千、何万という都合のよくない現実が埋もれているのです。障碍者に対する理解が及んでいるのなら、バスるはその不都合こそだと思うのですよね。
人間とはあらゆる意味において我儘な生き物です。
その事実に先ず目を向けるのが先である。
でもそれはとても難しいことでもあるのだなあ、と思う今日この頃なのです。
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