最近知り合った鬱の方から、ヘルプメールが届いた。Twitterで「心に一度傷を負うと不可逆的な傷が残る」というつぶやきを読んで落ち着かなくなったのだそう。
私には「メンタル不調を抱えている人は、迂闊にネットの情報に目を通してはならない」という持論があるのだけれど(特に自分の症状に関わる情報は精査できない状態に陥ることもままある為、この辺りは書籍から得るのが適切ではないかと考えている)、それを言ってしまっては情報化社会になって久しいこの社会では生きていけないので、そうではない方向性で返信をすることにした。
私には「メンタル不調を抱えている人は、迂闊にネットの情報に目を通してはならない」という持論があるのだけれど(特に自分の症状に関わる情報は精査できない状態に陥ることもままある為、この辺りは書籍から得るのが適切ではないかと考えている)、それを言ってしまっては情報化社会になって久しいこの社会では生きていけないので、そうではない方向性で返信をすることにした。
おはようございます
長文になってしまったので、いくつかに分けてメッセを送りますね
鬱の機能的メカニズムには詳しくないので、他の例を使いますが、
例えば被虐待児は脳の一部に委縮が認められることが知られていますよね
そういう意味では外因的なストレスは、
人間の機能に一生ものの不可逆的な傷を与えるものでもあると私は考えています
では被虐待児である彼らが、脳の萎縮によって生きていけないかというと、
そんなことはなく、その分他の機能が発達し、委縮した脳の機能をカバーしていますよね
彼らが人並みの生活を送れるのはそのお陰でもあります
何かの機能に異常が起こったとき、それをカバーするように他の機能が発達を遂げる
それは被虐待児に限らないですよね
鬱も私の健忘も突き詰めれば脳の神経伝達物質の機能異常な訳です
それはもしかすると脳の一部の機能に深刻なダメージを与えているものかも知れない
では症状が治らないのかと言うとそんなことはなく、
何かのはずみにチャンネルが合うと、神経伝達物質は正常な働きを取り戻しますよね
それは薬の影響であったり、外因的な環境要因の変化の影響によるものでもあるでしょう
私は私が健忘している人に会うと一時的に記憶が戻りますが、
(但しテレビや雑誌といったメディアでは駄目)
それが外因的な環境要因の変化によるものは明らかですよね
昔の職場に鬱で自殺未遂を起こすまでになってしまった同僚がいました
同僚の話によると鬱の発症の原因は職場で起こったある出来事が原因だそうです
半年以上に渡って薬漬けとも言える投薬を受け続けていた同僚ですが、
彼女が回復したのは薬のお陰では決してなく、
職場を変えただけの外因的な環境の変化によるものでした
身動きすらままならなかった同僚はたったそれだけでかつての自分を取り戻したのです
一度機能異常を起こすと、ニューロンだって学習するのですから、
そうした間違った成長を正しい成長として記憶してしまうことはあるでしょう
それが再発に繋がることもあるのはままある話ではないかと思います
全く鬱といった精神病理を経験していない人と比べれば、
機能異常を起こしやすくなっているのですから
でもですよ、被虐待児の例にあるように、人間の機能はどこかが壊れれば、
他の部分がカバーすべく発達していくようにできているのです
私たちが認識していないだけで、
鬱にだって健忘にだってそうした機能が働いているのかも知れない
日本の精神病理への理解の歴史は諸外国に比べると浅いですよね
これからわかっていくことがまだまだあるのでしょう
それは今より状況が悪くならないことを示しています
求める質問の答えになっているかはわかりませんが、
私が考えていることは以上のようなことになります
何かの参考になれば幸いです
しかし知識不足が否めないですねえ
お恥ずかしい限りです
記憶のある私は既に自分の疾患を「一生ものである」として受け入れているけれども、鬱の人にそれを望むのは酷だろう。誰だって一生ものの障碍者であるより、一時的な障碍者であることを望むものだ。
その中でよりベターな返信であるように心がけて書いたつもりだ。けれども、読み返してみてふと思ってしまった。自分で考える力が弱っている人に対して、この返信は語尾が強きに過ぎるのではないだろうか。
私の言葉は時として支配的になるのだ。
これから先の人生、記憶のある私は障碍者である自分を受け入れて生きるとを決めた。記憶が持つ限りは、私はそうして生きていく。記憶が無くなれば病識も無くなってしまからこそ、記憶を無くなさい為にできる限りのことは全てするつもりだ。精神障碍者手帳の取得もそのひとつだ。
そうである以上、今後はそうした人たちとの付き合いも増えるだろう。増える以上、デリケートな部分の多い障碍者との付き合い方を、どうやってなしていくのか、私は考えなければならない。
健常者であってもおかしくなってしまう付き合い方を私はしてしまうのだ。障碍者となったら尚更だろう。それ即ち、自分の在り方を根本的に見直す時期に来たということだ。
誰かに何かを決めて貰えるのは楽だ。そうした支配的な文章は時として過剰な依存を生み出す。
相手の考える力を奪ってはならない。
自ら考えて行けるような文章を書かなければならない。
私は言葉の持つ残虐さと、希望を知っているつもりだ。
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