あと数か月もすれば記憶が戻って二年になります。こんなに長期間、自力で記憶を持ち続けたのは生まれて初めての経験です。その所為かどうかわかりませんが、最近の私は物凄く面倒くさいの虫が騒いでいる状態です。
それ即ち、「記憶を持ち続けるの面倒くさい」。
別にいいじゃないの。記憶が無くったって。生きてはいけるんだし。
それ即ち、「記憶を持ち続けるの面倒くさい」。
別にいいじゃないの。記憶が無くったって。生きてはいけるんだし。
思えば20代半ばの私は自分の記憶が無くなるという現実を目の前にして、「仕事の記憶は無くならないのだから大丈夫」と、何の根拠もない自信を持っていたものでした。
実際は仕事の記憶だって巻き添えになって消えている訳で、全然大丈夫じゃなかったりするのですが、仕事の記憶が消えるにしても必要最小限(?)の一部で全部ではないので、生活はしていける訳です。
同様に家事の記憶にしてもそう。結婚していた時に元夫に教わった家事の記憶は消えてしまっていますし、現在でも蘇ることはありませんが、これまでの自分の経験だけでもなんとかなってしまっている状態です。
だからなんですよねえ。この失われ続ける記憶を私が持ち続けることに何の意味があるのかと思ってしまうのですよ。
そもそも勝手に身体が動いてしまうことだけ覚えていられれば、後の記憶は必要なかったりする訳でして、ここが一緒に消えてしまうという不条理な現実さえなければ、こんなに躍起になって記憶の保持に努めなくともいい訳ですよ。
どうにかそっちだけ覚えておけないものか。
自分の記憶が消えてもいい、なんて思ってしまえること自体、何がしかの認識障害が起こっている可能性があるのですけれども、とはいえですよ、覚えているだけで疲れる現実がある訳でして……
こんなに疲れるぐらいなら記憶が無い方がいいじゃないの。
記憶がある自分と記憶がない自分の考えに折り合いは付けないといけないですし、記憶が無い間に進んでしまった時間と現実のギャップを埋めなければいけませんし、それだったら記憶が無いままの方が楽に生きられるのは間違いない訳でして。
二年間頑張って、失ってしまった時間の分の認識の遅れは取り戻せた気がしますし、考えにも折り合いが付いたような気がします。だったらこの先、記憶が無くなっても問題はない。
次に記憶が戻るのがどういった状況でかはわかりませんが、ここまで認識の時間を進めた以上、私の考えがぶれることはないでしょう。その続きから始めればいいだけの話。
もしかしたら、今度記憶を失ったら一生戻ることはないかも知れない。
でも何か問題があるかと問われても、ない、ですよねえ。
取り敢えず、記憶を失う原因とはもう会うこともないでしょうし。
多分私は物凄く残酷なことを言っているのでしょう。自分の記憶が無くなっても問題ない、なんて考え、自分の過去を捨てるのと同義な訳ですから。でも覚えていたところで、やはり自分の過去だと実感が持てない。
「それは確かに私の過去である」という認識はありますけれども、その反面、「これは誰の過去なのか」という気持ちも捨てきれない。どうしても他人の過去を見ているような距離感が治らない。
他人に問われればああだったこうだったと答えられる。でも、そうやって答えておきながら、その答えている自分が誰なのかわからなくなることがあるのです。そんなの自分なんですよ。当たり前のことなんですよ。でもその認識が持てないんですよ。それこそが解離なのはわかっているのですが、そもそもそれからして、それは誰のこと?と思ってしまう。
解離を起こしている自分を現実として受け止める。先ずこれが私には出来ない。自分のこととして認めようとすると、それは自分の事ではないと思っている私の部分が離れていってしまう。何言ってるんだ、ですよねえ。
こんなの普通の人にわかるように伝えるのなんて無理だよなあ、と思ってしまいます。そうするとむくむくと頭をもたげてくるのが面倒くさいの虫なんですよ。理解を求めて何になるというのか。それだったら私が記憶を失った方が話が早いんじゃないの????
この考えが間違っていると誰かに言って欲しい。
そうでなければ私は記憶を保ち続けられない。
私は恐らく、普通であることを望み過ぎたのでしょうね。ただ普通の人生を送りたい、その気持ちが自分で思っている以上に強過ぎた。だから何度でも、自分が思っている普通の範疇から外れた記憶を失ってしまう。
だったら記憶を失った状態の方が、”わたし”にとっては幸福な状態であるのかも知れない。
”あなた”はどう思うのでしょうね。
自分で自分の幸福を決められない私は、意志疎通のできない”わたし”に全てを委ねてしまいたくなるのです。
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実際は仕事の記憶だって巻き添えになって消えている訳で、全然大丈夫じゃなかったりするのですが、仕事の記憶が消えるにしても必要最小限(?)の一部で全部ではないので、生活はしていける訳です。
同様に家事の記憶にしてもそう。結婚していた時に元夫に教わった家事の記憶は消えてしまっていますし、現在でも蘇ることはありませんが、これまでの自分の経験だけでもなんとかなってしまっている状態です。
だからなんですよねえ。この失われ続ける記憶を私が持ち続けることに何の意味があるのかと思ってしまうのですよ。
そもそも勝手に身体が動いてしまうことだけ覚えていられれば、後の記憶は必要なかったりする訳でして、ここが一緒に消えてしまうという不条理な現実さえなければ、こんなに躍起になって記憶の保持に努めなくともいい訳ですよ。
どうにかそっちだけ覚えておけないものか。
自分の記憶が消えてもいい、なんて思ってしまえること自体、何がしかの認識障害が起こっている可能性があるのですけれども、とはいえですよ、覚えているだけで疲れる現実がある訳でして……
こんなに疲れるぐらいなら記憶が無い方がいいじゃないの。
記憶がある自分と記憶がない自分の考えに折り合いは付けないといけないですし、記憶が無い間に進んでしまった時間と現実のギャップを埋めなければいけませんし、それだったら記憶が無いままの方が楽に生きられるのは間違いない訳でして。
二年間頑張って、失ってしまった時間の分の認識の遅れは取り戻せた気がしますし、考えにも折り合いが付いたような気がします。だったらこの先、記憶が無くなっても問題はない。
次に記憶が戻るのがどういった状況でかはわかりませんが、ここまで認識の時間を進めた以上、私の考えがぶれることはないでしょう。その続きから始めればいいだけの話。
もしかしたら、今度記憶を失ったら一生戻ることはないかも知れない。
でも何か問題があるかと問われても、ない、ですよねえ。
取り敢えず、記憶を失う原因とはもう会うこともないでしょうし。
多分私は物凄く残酷なことを言っているのでしょう。自分の記憶が無くなっても問題ない、なんて考え、自分の過去を捨てるのと同義な訳ですから。でも覚えていたところで、やはり自分の過去だと実感が持てない。
「それは確かに私の過去である」という認識はありますけれども、その反面、「これは誰の過去なのか」という気持ちも捨てきれない。どうしても他人の過去を見ているような距離感が治らない。
他人に問われればああだったこうだったと答えられる。でも、そうやって答えておきながら、その答えている自分が誰なのかわからなくなることがあるのです。そんなの自分なんですよ。当たり前のことなんですよ。でもその認識が持てないんですよ。それこそが解離なのはわかっているのですが、そもそもそれからして、それは誰のこと?と思ってしまう。
解離を起こしている自分を現実として受け止める。先ずこれが私には出来ない。自分のこととして認めようとすると、それは自分の事ではないと思っている私の部分が離れていってしまう。何言ってるんだ、ですよねえ。
こんなの普通の人にわかるように伝えるのなんて無理だよなあ、と思ってしまいます。そうするとむくむくと頭をもたげてくるのが面倒くさいの虫なんですよ。理解を求めて何になるというのか。それだったら私が記憶を失った方が話が早いんじゃないの????
この考えが間違っていると誰かに言って欲しい。
そうでなければ私は記憶を保ち続けられない。
私は恐らく、普通であることを望み過ぎたのでしょうね。ただ普通の人生を送りたい、その気持ちが自分で思っている以上に強過ぎた。だから何度でも、自分が思っている普通の範疇から外れた記憶を失ってしまう。
だったら記憶を失った状態の方が、”わたし”にとっては幸福な状態であるのかも知れない。
”あなた”はどう思うのでしょうね。
自分で自分の幸福を決められない私は、意志疎通のできない”わたし”に全てを委ねてしまいたくなるのです。
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