2019年の3月から4月にかけて思い出したことを纏めた文章です。
その為、尊称や敬称が古くなっている箇所があります。
読まなくて結構です。読んで何を思ったとしても責任は取りません。
<敬語遣い>
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殿下の妹君の教育係という話が来たのは確か小学校二年生のとき。恐らくそれで学習院の初等科に編入という話が持ち上がったのではないかと思う。
文部省から私の受け入れを打診された学習院側に、「そういった(高知能な)子を教えられる教師がいない」&「そういった子供であれば、どこで勉強をしても一緒でしょう」という理由で断られてしまったのは、担任が変わる前だったので一学期だった筈だ。
この頃は父もまだ私の転校に前向きだったし、私自身も転校に前向きだったので、もし学習院側が受け入れてくれていたら、素直に転校していたと思う。
少し話が逸れたが、そんな話が持ち上がってしまったところに、二学期には殿下とまで親交を持たせて頂くことになってしまったものだから、さあ大変。このままではいけないと、侍従さん(恐らくは女官のそれなりに偉い方)に、電話でやんごとない方との話し方を教えて頂くこととなってしまった。
「あなたはそこそこ敬語が使えるようですけれど、これからはもっとちゃんとした敬語を覚えて使って頂きます」
担当の侍従さんはお年を召したお厳しい方だった。指導のスピードは早く、これはこういった場面で使う言葉、これは……といった塩梅で、次々と耳慣れない単語が飛び出してくる。
「ということは、これは○○と同じ意味ということですか?」
「そうですよ。ですが、「ですか」ではなく、「でしょうか」と話しましょう」
質問にはきちんと答えてくださる方だったけれども、その他の侍従さんたちと異なり、無駄話をすることは一切ない方だった。
これを聞きつけて、自宅にまで乗り込んできたのが父方の千葉に住む叔母だった。
お転婆娘だった私の所作振る舞いは決して褒められたものではなかった。座り姿は胡座かきだし、立って歩く姿はふんぞり返った金満家。
だからこそ、こういった教育が早いに越したことはないだろうと考えたのだろう。叔母は私の母親と一緒になって、立ち居振る舞いについて、戦後の一時期に行われたらしい躾を私に強いるようになった。
日常生活は全てスカート。一番いいのは床磨きと言っては、私の足の間にサランラップの芯棒を挟ませて、スカートの中が見えないように一時間以上も掃除をさせる。
私は狡賢い子供だったので、つま先を宙にあげて膝の裏にスカートを巻き込み、腕の力だけで床拭きをやっては、「あんたはそうやって力を抜くことばかり考え付いて!」と、しょっちゅう母親に怒られたものだ。とはいえ、叔母はむしろよく考え付くと感心していたものだったけれども。
小学校二年生。遊びたいさかりの子供に所作振る舞いの教育というのは息苦しく感じられるもの。それでも、自宅だけで済むのならなんとか堪えようがある。その分、私は学校では思う存分遊び回ったものだった。
しかし、母親からすればズルを思い付く娘が相手。彼女は自宅だけでは足りないと、ついにはクラスの担任にまで話を付けてしまった。
学校でもサランラップの芯棒を挟んで掃除。所作や言葉遣いが乱れれば注意。面白がったクラスメイトにまで「それでいいの?」と、少しでも所作振る舞いが乱れれば言われる始末。
そんな風に家でも学校でも四六時中自分の振る舞いを監視される生活が続くものだから、数週間もする頃には私はすっかり参ってしまっていた。
そんな事情を知ってか知らずか、侍従さんと来た日には、いずれは歌を詠んで頂くだの、皇室典範を暗記して貰うだの、叙勲の階位を覚えて貰うだのと要求がグレードアップ。で、皇室典範だの叙勲一覧だのを家に送り付けてくる。読んでも何が何だかさっぱりわからなかった八歳の私は、ついに「こんなの一度に全部は無理!」と爆発してしまった。
いや、書いてあることの意味はわかるのである。ただ、何故それをやらなければならないのかがわからない。わからないからこそ、自分の置かれた状況に我慢の限界を迎えてしまった私は、いつもの調子で電話をくださった侍従さんに、そのまま泣きついてしまったのである。
侍従さんは、普段のお厳しい態度はどこにやら、大変に親身になって話を聞いてくださっただけでなく、母親に「そういったことは必要になったらこちらでやりますから」と言ってくださった。そして私に、「覚えが早いからと急ぎ過ぎた。大丈夫ですよ。直ぐという訳ではありませんから。ゆっくりやっていきましょうね」と優しく声をかけてもくださったのだ。
後に別の侍従さんに話を聞いたところ、ずうっと離れて暮らしていらっしゃるお子さんの、子供の頃のことを思い出したと話しておられたそうだ。
「休みが明けて、夫に子供を任せてこちらに戻ろうとすると、子供が言うのよ。「お母さん、なんでまたいなくなっちゃうの? いつになったらずっと一緒にいてくれるの?」って……」
住み込みで働いている方も多い”オク”の世界では、子供を残った家族に任せて離れて働いている侍従さんも多く、八歳児と向き合っていると子供が恋しくなるのだろう。この頃は、この侍従さんだけでなく、何人もの侍従さんに可愛がって頂いたことを覚えている。
ちなみに妹君の教育係の話は、殿下が私をお話し相手に所望されてしまったので、「そういったお立場の方に、今更妹君のご教育係というのは失礼にあたるだろう」という話になってしまった結果、小学校高学年のときに流れてしまった。残念な限りである。
当時、どのくらい残念に思ったかというと、ちょっとばかし殿下をお恨みしたぐらいだ。妹君とご交流を持たせて頂ければあんなことやこんなこともお話できたのに! ――男性上位のあちらの世界が恨めしかった一瞬だった。
さて、そうして一生懸命覚えた筈の敬語と慣用句だった筈なのだが、これが困ったことに何一つ覚えていないのだ! 本当に何一つ思い出せない! それどころか私の敬語の使い方は、この年齢になっても滅茶苦茶なまま!
原因はわかっている。宮さまと殿下だ。
いーやまあ、あのお二方、非常に変わっておられるお方々だったものだから、私が折角覚えた敬語を披露しても、お二方揃ってそれを全て無駄にするようなことを仰るのだ。
何せこちとら八歳児。新しく覚えた言葉が嬉しくて仕方がない。嬉しくて仕方がないものだから、喜んで使おうと思っていた。それなのに。
宮さまは覚えた以上は大丈夫だと私をご信頼くださって、一度聞けたら次はいいとのことだったので、私としてはまだ納得できた理由だったのだけれども、殿下の理由は――。
「お前、なんだ。その話し方は」
「侍従さんに教わりましたが、いかがでしょうか?」
「その話し方を止めろ。お前にまでそんな敬語を使われたくない」
それでも粘り強く敬語を使わせて頂いていたら、「今日はもういい!」と、電話を切られてしまった。話し始めてからたった五分後の出来事だった。
仕方がないので宮さまにご相談申し上げた。「兄君がそう言っているのでしたら、そうしてあげた方がいいでしょう」とのことだったので、宮さまに絶対服従の私は素直にその言いつけに従うことにした。
で、その結果、私は尊敬語と謙譲語(その他耳慣れない慣用句の数々)をどこで使えばいいのかわからなくなってしまったのだ。
親王殿下に尊敬語と謙譲語が使えない以上、私がそれらを使っていい相手は、皇太子及び皇太子妃両殿下か、天皇及び皇后両陛下に限られてしまう。(殿下が東宮にお立ちになられて以降は、繰り上がって、天皇皇后両陛下及び皇太后陛下のみという認識になってしまった)
そうなると、一般人相手にそういったやんごとない方々相手と同じ言葉遣いをする訳にはいかない――で、私は日常生活において、ですます調以外の敬語が使えなくなってしまったのだ。そう、それから今日に至るまで、私の滅茶苦茶な敬語はそのままなのである。
<歌を詠む>
割と頻繁に殿下がご連絡をくださっていた時期だったので、オックスフォードをご卒業されて、学習院大学院に復学されてからのことではないだろうか。小学校高学年だった私は、新しい侍従さんから手ほどきを受けて、歌を詠む練習を始めていた。
一度は流れてしまった妹君のご教育係の話が蘇ったのは、妹君がお探しになっている少女マンガを、侍従さんより電話で内容を聞かされただけで、私がそのタイトルを次から次へと当てていってしまっていたからだ。
――普段のお話も合いそうだし、これだったらお任せした方がいいのではないか。
となった結果、以前テキスト代わりに送られてきた歌集だの皇室典範だのの出番が、ついにやってきてしまったのである。
ところが、なのだ。そのテキスト代わりに送られてきた歌集だの、皇室典範だの、叙勲一覧だのがどこにもない。本棚に仕舞ってそのままだった筈のそれらの小冊子が、どこを探しても見付からないのである。
岩井だった。
またかよ。と思われるかも知れないが、あのクソガキ、私の不在の間だかに家に上がり込んだ際に、本棚からそれらの小冊子をパクりやがっていたのである。
侍従さんたちは盛大に呆れ返っていた。それはそうだ。再びの問題児の登場である。というか、我が家のセキュリティがどうなっているかの問題でもある。その割には、不思議なことに、岩井との付き合いについて何かを言われたことがないのだから、もしかすると、あちらにとってこういったことは、日常茶飯事的な“事件”なのかも知れない。
「そちらは一般にも配布しているものですから、言ってくだされば何冊でも差し上げます」
実のところ、それらの勉強を、このテキストの紛失事件でちょっとばかしやらないで済むかも、などと私は期待していた。それがばれてしまったのかも知れない。侍従さんには、あっさりとそう言われてしまった。やっぱりやらなきゃ駄目か……と十一歳の私は、八歳の自分を思い出してがっかりしたものだった。
そのまま直ぐに、それぞれ新しい小冊子が送られてきたのは言うまでもない。けれども八歳のときと比べて、格段に面白く読めたことだけは忘れられない。知識が集まるのが、ただただ面白くて仕方のない時期に来ていたからだろう。この頃の私は、目に付いたあらゆる本を手当たり次第に読んでいた時期でもあった。ただ、それを覚える――或いは、実際に自分がやるとなると話が違ってくるのだけれども。
そう。人間には残念なことに向き不向きというものがある。私の場合、それはこうした知識に対してであったらしい。
私は一生懸命歌集を読んで勉強したつもりになった上で、これでどうだと詠んだ歌を、侍従さんに聞かせたものだったけれども、「何故一向に成長が見られないのでしょう?」としきりと首を傾げられるほどに、歌の才能がなかったようなのだ。
恐らく今それらの歌を目にしたら、顔を覆ってそのまま外に飛び出してしまうだろうほどに酷いものだったに違いない。いや、当時の私は本当にいい歌を詠んでいるつもりだったのだけれども、アレは和歌の法則ではなく、昭和歌謡の歌詞の法則に近いんじゃないかと、なんとなく残っている歌の記憶を寄せ集めるに思う次第である。
で、何が一体いけないのかわからなくなった私は、侍従さん以外の他の誰かに教わるしかないと考えるに至ったのだが、小学生の限られた人脈の中に和歌の先生などいる筈がない。
学校の先生にも一応教えを乞うてみたものの、小学生にはまだ早いでしょう。との返事。そこをどうにか頼み込んで教わりながら一句詠みあげてみたものの、まあ当然ながら、理解が追い付いていないからだろう。侍従さんにはご不評であった。あはは。
学校の先生にも一応教えを乞うてみたものの、小学生にはまだ早いでしょう。との返事。そこをどうにか頼み込んで教わりながら一句詠みあげてみたものの、まあ当然ながら、理解が追い付いていないからだろう。侍従さんにはご不評であった。あはは。
そんな矢先に殿下からお電話を頂いたのだ。
最近の変わったことに関する話を御所望な殿下に、「なんだここに物凄いいい先生がいるじゃないのよ!」と気付いた私は、早速歌を詠まされていること、それが一向に成長しないことを殿下にご報告申し上げた上で、上達する為には何が足りないのかを伺ってみた。
「そういうのは数をこなすしかないだろう」
「それは既に言われてやっているのですが、どうもその、元々の何かが足りないような気がするのです」←才能がないと言っている。
「うん? ならどれかひとつ、自信があるのを読んでみろ」
と仰ったので、乞われるがまま、ノートから自分の気に入っている歌を読んでみた。続けて、他には、とも乞われたので、何句か読み上げた。今思い返すも、ご立派なお歌をお読みになるお方にお聞かせするのには稚拙な歌ばかりだった。恥ずかしいことをしたものだ。
「季語が足りないな」
「季語? 少し教わりましたが、どういうものなのかさっぱり」
「お前、どう教わった?」
「歌集を頂いたので、それを読んだだけです。後は感じたままに詠まれるようにとのことでしたので」
「なんだ? わざとやっているのか? 基本的なことを教えなければ上達しないのは当たり前だろうに。誰に教わっているんだ」
誰に、と言われても、我が家に電話をかけてくるあちら側の方々は、誰一人として名前を名乗らない。いつだって「侍従です」とだけ名乗ってくるのだ。
全員が全員、さも当然のようにそう名乗るものだから、私の母親などは“侍従”という名字の一族がいるのだと勘違いしていたほどである。なので、名前がわからない私は殿下の問いかけに、若いのかお歳を召しているのかわかり難い、年齢の割には若々しい声をしているように感じられる女性の方だと、声の特徴だけ申し上げた。
全員が全員、さも当然のようにそう名乗るものだから、私の母親などは“侍従”という名字の一族がいるのだと勘違いしていたほどである。なので、名前がわからない私は殿下の問いかけに、若いのかお歳を召しているのかわかり難い、年齢の割には若々しい声をしているように感じられる女性の方だと、声の特徴だけ申し上げた。
「僕はさておき、あいつらは名乗ってもいいと思うんだがなあ。まあいい。おい、お前。今から僕が一句詠むからメモを取れ」
「メモ、ですか?」
「それを次のときに言え」
「え? 無理ですよ! 殿下が詠まれたってバレてしまうじゃないですか!」
「大丈夫だ。安心しろ。お前のレベルに合わせてやる。気付くか気付かないかで誰がお前に教えているのかわかる」
うわ。このやり方、私、知ってる。友達の宿題を引き受ける時に私がやる手口だ。相手のレベルに合わせてわざと間違えるって例のアレ。やだ。やっぱり私この方と似ているんだわ。(←嫌そう)
「気付かれたら面倒なことになりませんか?」
「大丈夫だ。僕がなんとかしてやる」
侍従さんも怖い。殿下も怖い。怒らせると怖いお二方に挟まれてしまった私は、頭の中に両天秤を置いて、その重さを量ってみた――圧倒的な重さで殿下に傾いた天秤に、私は仕方なく、その”ご提案”を受け入れることにした。
侍従さんには気付かれなかった。それどころかお褒めの言葉まで頂いてしまったものだから、良心が痛んでどうしようもなかったほどだ。少しして、律儀に首尾を問う電話を寄越された殿下に、気付かれなかったことをご報告すると、今度は「少しレベルをあげる」とのお言葉。
そうして頂いたお歌は、私の拙い歌より、とにかくいいことだけはわかる立派なものだった。
歌の才能がない私にですら、ちゃんと歌としての体裁が整っていることが理解できてしまう。これは流石にマズいんじゃないの? と思い、それを口にしたところ、殿下は「大体誰かは予想が付いた」とのこと。
「このお歌はもしかして殿下のものではありませんか?」
殿下に教わった歌を再び読み上げたところ、案の定侍従さんには秒で殿下の詠んだ歌だとバレた。どう誤魔化したらいいのかわからない私は、侍従さんに、殿下にご相談申し上げたところ、こういったことになってしまったと素直に白状した。こう言えばいい、と殿下に仰せつかっていたからでもあった。
どうやら殿下の予想は当たっていたようだった。で、まあ、私の与り知らぬところで、殿下はこの侍従さんにちょっとばかし注意をしてくださったらしい。「そういったつもりではなかった」と、お詫び頂いてしまった。それは私の台詞でもある。
「お前、他には何を教わっているんだ?」
「皇室典範と叙勲の階位は覚えるように言われています」
「お前には必要ないだろう」
「そうは言われても、私にはわかりかねます」
「まあいい。それは覚えなくていい。歌はどうする? 止めたければ止めてもいいぞ」
「必要ありますか?」
「あるといえばあるし、ないといえばない。妹と歌のやり取りを手紙でしたりするぐらいにしか使わないだろう。どうする?」
で、度重なる侍従さんのダメ出しに、歌を詠む才能そのものがないのではないかと感じていた私は、殿下のお言葉に甘えて歌を教わるのを止めてしまったのである。
ちなみに殿下のお詠みになられた歌を書きつけたメモは、殿下に処分するように仰せつかったので、当然のことだよなあ、と思いながら廃棄した。こういったものが残ってしまうと後々厄介なことになるのを、あちら側の方々はよくご存じなのだ。
記憶ひとつ 取り戻したるふたとせの春
我が世の桜に 君の代を想ふ
あの歌を詠んだノートはどうしただろう。何かの片付けのときに、捨ててしまったのだろうか。手元に残らない当時の思い出に、自分の迂闊さを恨む次第である。
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