久しぶりのSSです。
<静かの海>
黒紅の空にぽっかりと月が浮かんでいる。
海上を滑るように|疾《はし》る機影が、まるで帆船のようだ。
波打ち際に寄せる波頭を避けながら、砂辺を歩むマサキは、今しがた去っていった男を想った。鼻につくほど嫌味ったらしい性格なのに、いざという時には誰よりも頼りになる。今だってそうだ。先程まで胸に巣食っていた息苦しさが嘘のように解消されてしまっている。
きっと、彼ならどんな難題でも、必ず何とかしてくれると思っているからなのだ。
砂を蹴る。
ざあっと舞い上がった白い砂粒が、さらさらと降る。
マサキは再び海に目を遣った。とうに姿を消してしまっている青い機影に、時間の経過を知る。
部屋の暗がりの余りの黒さに、寄る辺なさを感じて飛び出した夜だった。久しく感じることのなかった感覚は、ラングランでの生活が、それだけマサキにとって充実したものであることを表していた。
それは、地上世界にいた折に感じていた心細さにも似ていた。
両親を亡くして人生の指針を失ったような気分でいたマサキが、度々陥った心理的不均衡。孤独の意味を履き違えていたマサキは、あの時に初めて真の孤独とは何かについて考えるようになった。肉親という一番近しい血の繋がりを失った人間に世間は冷たい。親しかった友人たちでさえも、遠い存在と化してしまった。いや、彼らはマサキに寄り添おうと必死だった。ただ、マサキには彼らの優しさを受け入れる余裕がなかっただけだ。
思えばあの頃のマサキは、精神の回路のどこかが断線してしまっていたのかも知れなかった。
|地底世界《ラ・ギアス》に召喚されてからというもの、忘れてしまっていた感覚。心の片隅に抱えていた孤独感。それが蘇ったのは、平和が長くなったからかも知れなかった。すべきことに忙殺されている間は余計なことを考えずに済む。偶の休暇も骨休みとして過ごすことが出来る。けれども休暇が日常と化してしまうとそうはいかない。自分はこれから何をして生きてゆくのか。マサキが直面したのは、日常が変化したが故の喪失感だった。
ふと振り返ると、沢山の人間との|別離《わか》れがそこに転がっている。
悲しむ間もないままに、前に進んで、進んで、進み続けて、そして数多の世界の危機を救った。けれども勝利に酔い痴れている暇などない。マサキの目の前に広がっているのは、新たな戦場、そればかりだった。
――クォーターライフクライシスと云うのですよ。
自分の部屋を出て、|風の魔装機神《サイバスター》に機乗し、ただ気紛れに舵を切って辿り着いた南の海には先客がいた。シュウ=シラカワ。彼はマサキの話を一通り聞いたのちに、闇に飲み込まれていく海の果てに視線を向けたままでそう口にした。
――クォーターライフクライシス?
――人生の四分の一の時期に訪れる幸福の低迷期のことです。この時期の人間は、自分らしさを見失いがちになるのですよ。
――俺のこれが良くあることだって?
――そう考えた方が楽でしょう。
シュウ曰く、世の中は『何者かになりたくとも成れない』人間ばかりで構成されているのだそうだ。その中で、風の魔装機神の操縦者として唯一無二の立場にあるマサキは特別な存在だ。だからといってその全てが特別である必要などない。むしろ、他人と等しく、当たり前を抱えているからこそ、その立場を耐えていられる――らしい。
マサキには意味が|理解《わか》らない。
ただ、彼が素のままのマサキ=アンドーを尊重しようとしてくれているのは理解出来た。
――人間は、何者かになりたいと思いながらも、他人と同じ面を持つ自分に安心する生き物であるのですよ。
――面倒臭えな。お前も、俺も。
――ふふ……そうですね。私も、あなたも、そうした面倒臭い人間のひとりであるのでしょうね。
シュウの答えを聞いたマサキは安堵した。
多数の能力に優れ、存在そのものが特異である彼も、恐らくは、他人と同じ面があることに安心することがあるのだ。
――まだ、寂しいですか。
――寂しいのとは違うがな。でも、落ち着いた。
――それは何より。
柔らかく頬に当たる手がそうっと顎に滑り落ちてくる。マサキの口唇に軽く触れてきた彼の口唇の温もりは、けれども彼の内心に比べると、何段階も冷ややかであるようにマサキには感じられる。
――では、私はこれで。
いつからか当たり前のように触れてくるようになったシュウの口唇に、マサキは何も云わなかった。
云っても無駄であるような気がしたのは勿論だったが、それこそがシュウと自分の答えであるような気がしているからだ。
「……さて、帰るか」
ひとりで波打ち際をいつまでも歩んでいても成果はない。マサキは踵を返した。
見るべきものは見たし、話すべきことは話した。そして、聞くべきことを聞いた。すべきことを終え、シュウも去ったた以上、マサキに出来ることは、速やかに自宅に戻って心地よい睡眠を得ることだけだ。
マサキは月に照らされて白銀に輝く愛機を見上げた。砂を噛む音が背中から迫ってくるような静けが満ちている。賑やかさが恋しい。マサキは、明日という日常を迎えるべく風の魔装機神に向かって歩み出した。
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